「鎌倉殿の13人」尼将軍・政子の伝説が幕開け!第46回放送「将軍になった女」予習:3ページ目
どうする義時……地頭改補の院宣
話を戻して3月8日、後鳥羽上皇の使者として藤原忠綱(ふじわらの ただつな)が鎌倉へやってきました。
内藏頭忠綱朝臣爲上皇御使下向。
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月8日条
「これは内蔵頭(くらのかみ)殿。ようこそ、地の果て鎌倉へ……」
翌3月9日、使者を出迎えたのは尼御台・政子。用件は実朝暗殺に対するお悔やみです。
仙洞御使忠綱朝臣參禪定二品御亭〔右府御舊跡〕。右府薨御事。叡慮殊御歎息之由。依被仰下也。次謁申于右京兆。是攝津國長江倉橋兩庄地頭職可被改補事已下 院宣條々也。
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月9日条
「右大臣(右府=実朝)閣下が薨御(こうぎょ。貴人が亡くなること)あそばされたこと、上皇陛下はこと御嘆息にございます(右府薨御事。叡慮殊御歎息之由)……」
まぁ、そりゃそう言うだろうな。という社交辞令。しかし本題はここからでした。
「しからば、右京兆(義時)殿にもご挨拶を……」
「……ご用件は」
ところ変わって義時の館。忠綱は本題を切り出します。
「摂津国の長江荘・倉橋荘(どちらも現:大阪府豊中市か)。以上二カ所につき、地頭を改補(かいぶ)せよとの院宣にございまする」
当地の地頭は義時であり、改補とは文字通り「補し改める」要するに「現職を更迭(クビに)せよ」という命令です。
どうやら後鳥羽上皇が寵愛している白拍子・亀菊(かめぎく。長江荘・倉橋荘を与えられていた)が「あそこの地頭が気に入らないからクビにして」などとおねだりしたからとのこと。
しかしこの要求を受け入れてしまえば、今後鎌倉の人事に朝廷が介入する悪しき前例となることは間違いないでしょう。
とは言え院宣ですから、やたらと突っぱねれば朝敵の烙印をおされてしまうリスクがあります。加えて親王殿下の鎌倉下向も反故にされてしまうかも知れません。
「……十分な検討の上で、ご回答申し上げます」
義時としては、とりあえずそう答えるよりないでしょう。忠綱は返事を聞くまでもなく3月11日に帰っていきました。
今曉。御使忠綱朝臣歸洛。申刻。伊賀太郎左衛門尉光季飛脚參着。去月晦日江州有謀叛輩之由。風聞之間。自今月一日至同四日。雖搜求無其實。但有疑貽。一兩輩生虜。是刑部僧正長賢一族之由申之。
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月11日条
「さて、どうしたものか……」
義時が頭を抱えていると、京都から伊賀光季の使者が到着します。
「去る2月30日(※太陰暦ではすべての月が30日)に近江国(現:滋賀県。江州)で謀叛の噂があったため、3月1日から4日にかけて捜索しました。しかしこれといった動きはなく、引き上げようとしたところ、怪しい者を捕らえました。取り調べると刑部僧正長賢(ぎょうぶのそうじょう ちょうけん)の身内だということです」
刑部僧正長賢は後鳥羽上皇の護持僧(お抱え僧侶)……明らかに裏で糸を引いていたようです。後鳥羽上皇との関係を忖度して釈放すべきか否か……又しても頭痛のタネが増えた義時でした。