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忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】

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信仰よりも忠義を選ぶ

さて、永禄3年(1560年)に今川義元が桶狭間の合戦で討死すると、竹千代改め松平元康(もとやす。独立後、徳川家康と改名)は混乱に乗じて悲願の独立を回復。三河の戦国大名として名乗りを上げました。

(※父・松平広忠は既に死去。死因については諸説あり)

しかし喜んでばかりもいられません。永禄3年(1563年)には支配下の西三河で一向一揆が勃発。徳川家臣団の中でも一向宗(浄土真宗)に帰依している者がおり、少なからず寝返ってしまったのです。

「又五郎、そなたもか……!」

「いえ。それがしは信仰よりも御屋形様を選びます」

康景も日ごろ熱心な一向宗徒でしたが、家康への忠義をまっとうすることを決断。その場で棄教。奮闘の末、賊徒の一人・馬場小平太(ばば こへいた)を討ち取りました。

また一向一揆と連携していた吉良義昭(きら よしあき)を攻めて東条城(現:愛知県西尾市)を奪取します。

こうした忠義と武勇をもって認められた康景は永禄8年(1565年)に三河国の奉行職を拝命。共に任じられた高力与左衛門清長(こうりき よざゑもんきよなが)と植村庄右衛門正勝(うえむら しょうゑもんまさかつ)と並んで三河の三奉行と称されました。

後に植村正勝は本田作左衛門重次(ほんだ さくざゑもんしげつぐ)と交代し、人々は「仏高力、鬼作左。どちへんなきは天野三郎兵衛」と囃したとか。

この「どちへんなき」は「どちらへんでもない」つまり偏りがない公正さや性格が極端でない穏やかさを示したもの。やさしい高力と、怖い作左衛門の間に立ってバランスをとっていたことがうかがわれます。

やがて家康が遠江国・駿河国と勢力を東へ広げると高力や作左衛門もそれに従い、康景は三河国を任されるようになりました。

3ページ目 勝ったり負けたり戦歴を重ねる

 

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