忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】:4ページ目
下女が夢に見た連歌を披露
さて。いかに戦国乱世の武士と言っても、年がら年中戦ってばかりではなく、プライベートな時間や楽しい出来事だって当然あります。
康景は牛田庄右衛門行正(うしだ しょうゑもんゆきまさ)の娘を正室に迎え、天正2年(1574年)には嫡男の天野康宗(やすむね)を授かりました。
また天正3年(1575年)正月には、こんな出来事があったとか。康景に仕えている下女が、不思議な夢を見たと言うのです。
「何か知らねえけど、夢の中でみんなが五七五七七で話をしてんですよ。おらすっかり覚えちまって……」
内容を聞いてみると、複数名での和歌をつないだ連歌でした。
「不思議なこともあるものだ。このめでたい(※)連歌は徳川家の吉兆やも知れぬ。さっそく御屋形様へお知らせいたそう」
(※)内容は不詳。ただし不吉であれば祝賀の席で披露されることもないでしょうし、めでたいものと推測。
「ほぅ、これはよい。さっそく二十日の祝いで披露しよう」
家康は1月20日、御鎧の賀儀(おんよろいのがぎ。鎧開き・具足始め。二十日は刃柄に通じて武士の縁起担ぎとされた)において連歌会を催しました。
「天野の下女が、夢でかような歌を聞いたそうな。これを発句に詠もうではないか……」
かくして連歌会は大盛況。その年は長篠の合戦において武田勝頼(かつより。信玄の子)に大勝利。三方ヶ原の雪辱を果たしたのでした。
あの夢は天のご加護だったに違いないと、これ以来毎年の連歌会においてこの連歌が詠まれたということです。
※参考文献:
- 煎本増夫『戦国時代の徳川氏』新人物往来社、1998年10月
- 煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月
- 『寛政重脩諸家譜 第五輯』国民図書、1923年1月
- 新井白石『新編藩翰譜 第5巻』人物往来社、1968年1月