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忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】

忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】:3ページ目

勝ったり負けたり戦歴を重ねる

その後も永禄12年(1569年)に天方城(現:静岡県周智郡森町)攻めで榊原康政(さかきばら やすまさ)・大久保忠隣(おおくぼ ただちか)らと共に武功を立てます。

天方城攻めでは首級を上げる活躍を見せたものの、返り討ちにあったのか手傷を負ってしまいました。

続く元亀元年(1570)6月28日、姉川の合戦では加藤喜助正次(かとう きすけまさつぐ)と共に朝倉景健(あさくら かげたけ)の軍勢に勝利。激しい戦闘の結果、両軍が流した血によって川面が赤く染まったと言います。

しかし勝利の美酒に酔えば敗北の苦杯をなめることもあるのが武門の習い。元亀3年(1573年)12月22日、三方ヶ原の合戦では武田信玄(たけだ しんげん)の軍勢に惨敗。
徳川方は這々(ほうほう)の体で逃げ出しますが、武田勢は猛然と追撃してきます。

少しでも足止めしようと奮戦する康景は、少しでもよい敵を倒そうと金の馬鎧(文字通り、馬に装着する防具)をつけた騎馬武者と槍を交えました。

実力伯仲の死闘を演じていると、少し離れたところから武田方の者が弓で康景の背後に狙いをつけます。

「又五郎、背後から弓で狙われとるぞ!」

声をかけたのは仲間の内藤四郎左衛門正成(ないとう しろうざゑもんまさなり)。敵が逃げたお陰で康景は危機を脱しました。

ただし槍を交えていた騎馬武者との勝負もうやむやになり、頃合いと見た康景たちは家康の後を追って浜松城へ逃げ込みます。

「ここまで来れば、ひとまずは安心か……しかし、このままでは癪に障る。一矢報いてやりたいもんじゃのう」

植村正勝と共に大手門を警護していた康景は、大久保忠世(おおくぼ ただよ)と共に夜襲を仕掛けました。

「……よし、かかれ!」

浜松城から北に1キロほどの犀ヶ崕(さいががけ)で武田の陣を襲撃。『織田軍記』によると双方の被害は徳川535名、武田409名とのことで、やはり敗戦で疲労困憊していた無理がたたったようです。

※なお、この犀ヶ崕の夜襲は当時の史料に記録がなく、江戸幕府による史料では「十数挺の鉄砲とわずかな兵で武田方を攪乱し、多数を崖から追い落とす戦果を上げた」など荒唐無稽な内容となっています。

とは言え、ただ負けてばかりでは収まらない三河武士の意地を見せつけたことは確か。この時の武勲により、康景は三河国渥美郡に200貫の知行を給わったのでした。

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