「鎌倉殿の13人」富士の巻狩り、そして曽我兄弟の仇討ちは…第23回放送「狩りと獲物」予習:5ページ目
頼朝との対面
夜が明けて、辰刻(午前8:00ごろ)。五郎は庭に引き出され、頼朝による尋問が行われました。
建久四年五月大廿九日甲午。辰剋。被召出曾我五郎於御前庭上。將軍家出御。揚幕二ケ間。可然人々十餘輩候其砌。所謂一方。北條殿。伊豆守。上総介。江間殿。豊後前司。里見冠者。三浦介。畠山二郎。佐原十郎左衛門尉。伊澤五郎。小笠原二郎。一方。小山左衛門尉。下河邊庄司。稲毛三郎。長沼五郎。榛谷四郎。千葉太郎。宇都宮弥三郎等也。結城七郎。大友左近將監。在御前左右。和田左衛門尉。梶原平三。狩野介。新開荒次郎等。候于兩座中央矣。此外御家人等群參不可勝計。爰以狩野新開等。被召尋夜討宿意。五郎忿怒云。祖父祐親法師被誅之後。子孫沈淪之間。雖不被聽昵近。申最後所存之條。必以汝等不可傳者。尤直欲言上。早可退云々。將軍家依有所思食。條々直聞食之。五郎申云。討祐經事。爲雪父尸骸之耻。遂露身欝憤之志畢。自祐成九歳。時致七歳之年以降。頻挿會稽之存念。片時無忘。而遂果之。次參御前之條者。又祐經匪爲御寵物。祖父入道蒙御氣色畢。云彼云此。非無其恨之間。遂拝謁。爲自殺也者。聞者莫不鳴舌。次新田四郎持參祐成頭。被見弟之處。敢無疑胎之由申之。五郎爲殊勇士之間。可被宥歟之旨。内々雖有御猶豫。祐經息童〔字犬房丸。〕依泣愁申。被亘五郎。〔年廿。〕以号鎮西中太之男。則令梟首云々。此兄弟者。河津三郎祐泰〔祐親法師嫡子。〕男也。祐泰去安元二年十月之比。於伊豆奥狩塲。不圖中矢墜命。是祐經所爲也。于時祐成五歳。時致三歳也。成人之後。祐經所爲之由聞之。遂宿意。凡此間毎狩倉。相交于御供之輩。伺祐經之隙。如影之随形云々。又被召出手越少將等。被尋問其夜子細。祐成兄弟之所爲也。所見聞悉申之云々。
※『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月29日条
「何ゆえ斯様な暴挙に及んだか」
頼朝が直接ではなく、御家人の狩野宗茂と新開荒次郎に尋ねさせたところ、五郎は怒り狂って言い放ちます。
「祖父・伊東祐親(演:浅野和之)が誅せられてよりおそばに近づくことも出来ぬほど落ちぶれてしまったが、どうせこれが最後だ。鎌倉殿に直接でなければ話さぬ!」
では聞いてやろう……ということで頼朝が直接に尋ねたところ、
「工藤めを討ったのは、父を殺された仇討ちがため。幼くして父を喪った怨みを忘れず、復讐のために生きて参りました。工藤の次に鎌倉殿の元へ向かったのは、祖父を討たれた怨みがないわけではなかったため、それを申し上げた上で自害しようと思ってのこと」
これを聞いた御家人たちはみな感動し、父を思い続けた心意気を賞賛しました。頼朝も孝心と武勇に免じて助命しようと思っていましたが、祐経の遺児・犬房丸(いぬぼうまる)が泣いて処刑を訴えます。
「なるほど曽我兄弟は祐経に父を討たれた。その仇討ちはまっとうである。しかし祐経にも子があり、父を奪われた犬房丸がまた仇討ちを図っては憎悪の連鎖を止められなくなってしまう」
頼朝はやむなく五郎を鎮西中太(ちんぜい ちゅうた)という者に命じて五郎を梟首せしめたのでした。
終わりに
かくして落着した曽我兄弟の仇討ち事件。しかし鎌倉に残っていた源範頼(演:迫田孝也)の「鎌倉はそれがしがお守りします」発言や、遠く常陸国で八田知家(演:市原隼人)による政変事件(建久4年の常陸政変)など、その余波は少なからず影響を及ぼします。
日本三大仇討ちの一つとして知られる今回の仇討ち事件(他の2つは赤穂浪士討入と、伊賀越えの仇討ち)。親孝行はもちろんのこと、弱者でありながら不屈の意志で本懐を遂げた点が日本人の共感を呼んで人々に愛されてきました。
大河ドラマではどのようなアレンジが加えられるのか、次週放送も楽しみです!
※参考文献:
- 坂井孝一『物語の舞台を歩く 曽我物語』山川出版社、2005年2月
- 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 後編』NHK出版、2022年6月