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「鎌倉殿の13人」ついに頼朝追討の宣旨!?受けて立つ頼朝…第19回放送「果たせぬ凱旋」予習

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下された「頼朝追討」の宣旨

一方の義経は文治元年(1185年)10月13日、行家と一緒に御所へ参上。後白河法皇に頼朝討伐の宣旨を下さるよう直訴します。

「兄・頼朝は罪なき叔父を討てと命じてきましたが、私にはそんなことできません。また私自身も平家討伐で大手柄を立てたにもかかわらず、ロクな恩賞もないばかりか、平家から奪い取った所領をすべて召し上げられてしまいました。もはや我慢の限界です。どうか頼朝討伐の宣旨を下さい。もしお許しがいただけないなら、二人とも今すぐこの場で自害します!」

神聖な御所で自害などされてはたまらない……とりあえず後白河法皇はその場しのぎで「宣旨については検討するから、まずは行家をなだめ、謀叛など思い留まるよう説得せよ」と帰らせました。

「よいか、抜かるでないぞ……かかれ!」

10月17日、京都に到着していた土佐坊昌俊は水尾谷十郎(みおや じゅうろう)ら60余騎(出発時は83騎だったのに、約20騎ほど脱落した模様)を率いて六条室町の義経邸を襲撃します。

「来たか!」

ちょうど手薄になっていましたが義経は佐藤忠信(さとう ただのぶ)らを従えて必死に防戦。後から駆けつけた行家の加勢もあって、昌俊を撃退しました。

「鎌倉の刺客……これは何としても宣旨をいただかねばならぬ」

翌10月18日、かねて御所で議論されていた結果、義経と行家に対して頼朝討伐の宣旨が下されたのでした。

文治元年十月十八日 宣旨
從二位源頼朝卿偏耀武威。已忘朝憲。宜令前備前守源朝臣行家。左衛門少尉同朝臣義經等。追討彼卿。

※『吾妻鏡』文治元年(1185年)10月18日条

【意訳】頼朝は武力をたのみに朝廷を軽んじている。行家と義経は頼朝を追討すべし。

「命に代えても朝敵を討ち滅ぼしまする!」

義経の軍略に朝廷の宣旨が加われば鬼に金棒、これでにっくき頼朝もおしまいだ……行家はほくそ笑んだことでしょう。

3ページ目 上等だ、受けて立つ……本腰を上げた頼朝

 

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