主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ:2ページ目
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景鏡の計略による朝倉家の滅亡
1573(天正元)年8月のことです。景鏡は、信長の小谷城攻めを受けて出陣の命を受けました。しかし、自軍の兵が疲弊しているからと、これを拒みます。
仕方なく、主君である義景は自らが総大将として出陣しました。
しかしここで、信長は暴風雨を利用した奇襲を行います。このため大嶽砦が陥落し、朝倉軍は撤退を余儀なくされます。
追撃の手を緩めない信長によって、朝倉勢は壊滅的な被害を受けました。そして越前一乗谷へ攻め込まれます。義景はピンチに陥りました。
ここで景鏡が、自分の領土である大野郡で再起を図ることを勧めます。義景たちに、六坊賢松寺を仮宿として提供しました。
しかし、これこそが景鏡の罠でした。彼は寺を包囲して攻め、主君である義景を自害に追い込んだのです。
かつての主君を討ち取った景鏡は、信長に帰順。義景の首と、捕縛した義景の妻子と母、近習を差し出しました。そして彼は信長から「信」の一字をもらい「土橋信鏡」と改名しました。
こうして朝倉家は滅亡しました。
その後は、1574(天正2)1月に越前一向一揆が発生。朝倉景鏡こと土橋信鏡もこれの標的となり、居城である亥山城を攻められます。
彼は平泉寺に籠ったものの、放火によって建物は壊滅。最期はわずか三騎で敵中に突っ込んでいって玉砕したとされています。
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