夢はでっかく天下一!戦国乱世を闘い抜いた天下七兄弟の武勇伝:2ページ目
親友同士の一騎討ち!その結末は?
辻小作は福島正則に仕へしが、可児才蔵と親しみ深く、共に世に聞えたりし物なり、中黒道随は石田の賓客の如くもてなし置けり、関ヶ原の軍敗れし時、中黒唯一騎落行兵の中に踏止り、さんざんに戦ひけるを辻見ていざ討とらばやといへば、可児なさけなき事をいふもの哉、たすけばやと云辻されは生どれとや、可児に好まれて辞し難しといひすて馳行くところに、中黒馬を深田に打入りて、諸鐙を合わせて更に動かず、辻詞をかけ日頃のよしみに助んずるよ、早く取付けとて槍の鐏(いしずゑ。石突)をさし出す、中黒かゝるきはに命助かりても何にかせんとて、すでに自害すべく見えしかば、辻何とたばかるべきや、神明にかけていつはらじといへば、とりつきたるを辻主従引あげて陣所に帰る、可児見て大に悦びけり、さて辻は物具脱て裸になり、仰に打臥して只今まで敵なりし中黒を物とも思はぬ有様にて物語す、中黒あまりに侮りたるよと心中にいかりけれども命を助けたりし恩を思ひて、さてやみぬと後に中黒此事を語りて笑ひしとなり、中黒後井伊直孝招きて禄二千石あたへられけり……。
※湯浅常山『常山紀談』より「辻小作中黒道随が事」
【意訳】
辻小作は福島正則(ふくしま まさのり)に仕えていたが、可児才蔵(笹野才蔵)と仲が良く、共に武名を轟かせていた。
一方、中黒道随は二人と交流がありながら、石田三成(いしだ みつなり)の客将となっており、関ヶ原の合戦に敗れた際、仲間を先に逃がすためただ一人で踏みとどまって大奮闘している。
それを見た辻小作が中黒道随を討ち取りたいものだと言えば、可児は「何を言うか、あれほど忠義の勇士を討つなどもったいない」と答え、それなら「生け捕りにしよう」と辻小作が一騎討ちを挑んだ。
両雄が闘っていると、中黒道随は馬を深田に乗り入れてしまい、はまり込んで動けなくなってしまう。
「ほら、日ごろのよしみで助けてやるよ」
そう言って辻小作は槍の石突を差し伸ばしてやった。中黒道随は生き恥を晒すまいと自害しかけたが、辻小作が「天地神明にかけて何も偽り(≒騙し討ち、なぶり殺し等)はせぬ」と約束。こうして中黒道随は助けられた。
「おぉ、無事であったか」
可児は中黒道随との再会を喜び、辻小作はよほど疲れたのか、鎧も兜も何もかも脱ぎ捨てて、褌一丁の大文字で眠ってしまう。
これを見て中黒道随は心中怒りに思うよう、
(いくら旧友だからと言って、さっきまで敵だった者の前であまりに無防備な……さても侮られたものだ)
しかしそうは言っても命を助けてくれた恩人でもあるのだから、ここで怒りを露わにしたり、まして寝首を掻いたりしたら、それこそ天下の物笑い。
「まぁ……あの時は怒りを抑えるのに必死だったよ」
と、後に笑い話となったそうな。
ちなみに、中黒道随はその武勇と忠義が井伊直孝(いい なおたか。井伊直政の子)に認められ、二千石で召し抱えられたと言うことである。
終わりに
旧友を信じて無防備な姿をさらした辻小作と、その心意気に応えた中黒道随。中黒を助けた辻の見る目は間違ったいなかったようです。
ちなみに残る丹羽山城については、同時代の丹羽一族を調べてみても山城守を名乗っていた者が見つからず、謎のままとなっていますが、今回のように隠れたエピソードの発見が俟たれます。
夢はでっかく天下一。結果を知っている後世からすればそれなり(※とは言うものの、何百、何千石の知行って、充分凄いですけどね)に見えても、若者らしい希望と意欲に満ちあふれた「天下七兄弟」という呼び名に、彼らの雄志が偲ばれます。
※参考文献:
湯浅常山『常山紀談』博文館、1909年9月