江戸最大の深川岡場所の花街に生きた「辰巳芸者」という“いき”のいい女たち【後編】
皆さんは“芸者”というとどんなイメージを思い浮かべますか?
着物を着て宴会などで三味線や歌を唄ったり、お酌したりという姿を思い浮かべるのではないでしょうか。
ところが、“芸者”と言ってもその人達が根付く土地柄によって、色々な芸者さんがいたのです。
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江戸最大の深川岡場所の花街に生きた「辰巳芸者」という“いき”のいい女たち【前編】
皆さんは“芸者”というとどんなイメージを思い浮かべますか?着物を着て宴会などで三味線や歌を唄ったり、お酌したりという姿を思い浮かべるのではないでしょうか。ところが、“芸者”と言ってもそ…
辰巳芸者とは
上掲の浮世絵は喜多川歌麿による辰巳芸者として人気だった“路考”という女性を描いたものです。左上のマス目に、龍(たつ)、巳(み)、櫓(ろ)、香(こう)の絵が描かれています。
さて、辰巳芸者たちのお得意様達は深川という土地柄、情に厚くて粋(いき)を好む威勢のいい職人や商人たちがほとんどでした。すると芸者たちも自然と客の好みに馴染んでいったのです。
そのため他の芸者とは違い何よりも「いき」を尊び、薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま。当時男のものだった羽織を着て“羽織芸者”や“お羽織さん”とも呼ばれ、テンポの良い男っぽい喋り方をしました。
また芸名も「浮船」「葵」といった女名前ではなく、「ぽん太」や「蔦吉」「豆奴」などの男名を名乗っていました。
気風がよくて情に厚く“芸は売っても色は売らない”を信条とする辰巳芸者は、「いき」の権化として江戸で非常に人気があったといいます。
上掲の『深川の雪』は縦2m、横3.5m近くにも及ぶ浮世絵史上最大の掛軸画です。吉原遊郭に比べてまずは衣装が地味であることが分かります。舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「いき」の象徴とたたえられました。
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