このイケメン武士、何者?戊辰戦争で活躍した上田甚五右衛門のエピソード【上】:2ページ目
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いざ決戦!の出鼻をくじかれ……
さて、慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、いよいよ討幕(戊辰戦争)の火蓋が切って落とされました。
「さぁ、いよいよ出番が来たぞ!」
ここでようやく上田甚五右衛門らの登場です。この日のために、必死で鍛錬を重ねた腕前を存分に奮おうとしたのですが、1月6日に藩主の蜂須賀斉裕が急死(※)してしまいます。
(※)混乱する藩論をまとめ切れず鬱(うつ)状態に追い込まれ、酒に逃げた結果アルコール中毒症で亡くなったそうです。
「喪に服するため、兵を退け!」
「そんなバカな、まだ何もしていないのに!」
大混乱の中、徳島藩主を継いだのは23歳の蜂須賀茂韶(もちあき、斉裕の次男)。その後の体制を立て直すため(と言うより、藩政の主導権を握るため)に徳島藩勢の大半が我先にとばかり国許へ引き揚げてしまいました。
「我らは一体どうすれば……!」
「皆に従い、我らも退きあげるべきでは?」
「……いや。武士がひとたび戦さ場へ出たならば、勝負を決せずに退くなどありえぬ。まして陣中には畏れ多くも錦旗(※)を掲げておる以上、これを護持して進軍すべし!」
(※)きんき。朝廷の命を受けた官軍であることを示す錦の御旗。
そうした少数の志士たちが気を取り直してなおも進軍。奥羽戦線でも奮闘しますが、いかんせん少数であったため友軍から侮りを受け、藩主が徳川将軍家の縁類であることもあって、後々まで冷遇されたそうです。
※参考文献:
徳島県立文書館 編「特別企画展 庚午事変の群像」徳島県立文書館、2007年1月
庚午事変編集委員会 編『徳島市民双書3 庚午事変』徳島市中央公民館、1970年10月
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