皇室史上、最後の女帝・後桜町天皇にまつわる聡明で慈悲深きエピソード:2ページ目
天明の飢饉のときにりんごを配る
1782年頃から発生した飢饉は、東北地方を中心に多くの被害がもたらされました。のちの世にいう「天明の飢饉」です。
江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その1】
米価の高騰による生活苦からの救済と、五穀豊作を祈願求めた一部の人々が、京都の御所の築地塀の周りを廻るようになりました。人々は南門にたどり着くと、その少し低くなった柵の垣根から、銭を南門前面の敷石に投げ入れ、その向こうにある紫宸殿に向けて手を合わせるのです。
まるで、神社にお参りでもするかのような雰囲気ですが、これを「御所御千度参り」といいます。この「御所御千度参り」は一種のブームになり、御所沿道では参拝者が溢れて、あちこちで茶や酒、食事が振る舞われるようになったそうです。
そのような暑さの厳しい頃、後桜町上皇は、参拝者に対して3万個のりんごを配らせたのですが、朝のうちに全てなくなってしまったそうです。
歌道の名人としても名を遺し、文筆にも優れていた
後桜町天皇は、和歌にも優れ、数々の御製歌を残していることでも知られています。和歌の他にも漢学を好み、譲位後も『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の講義を受けるなど、とにかく学びを大切にしていたようです。
また、文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が残されているほか、『禁中年中の事』という著作も残しています。
以上、後桜町天皇の有名なエピソードを3つ紹介しました。残念ながら中学校や高校学校の歴史の教科書には詳しく触れられていない天皇でしたが、とても聡明で慈悲深い女帝だったと考えらえます。
参考:宮内省図書寮 編『後桜町天皇実録』1~4巻(2006 ゆまに書房)