一揆、流罪、毒殺未遂…歌舞伎や講談の題材にもなっている「加賀騒動」の実態:2ページ目
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加賀騒動の実態
このような状態の中、前田直躬(まえだなおみ)や青地礼幹(あおちのりもと)らは特に大槻に反発心を持っていました。
そして、延亭2年(1745年)吉徳が亡くなると、いっきに前田直躬は大槻朝元を糾弾。彼に転勤・蟄居、さらには流罪まで申しつけました。
さらに、後継者争いが勃発します。吉徳の死後跡を継いだのは長男である宗辰(むねとき)でしたが、彼は藩主になってからたった1年半で病気で亡くなりました。
その後、異母弟の前田重煕(まえだしげひろ)が第八代藩主となりましたが、江戸藩邸にて重煕の毒殺未遂事件が発生。主犯は吉徳の側室であった真如院という女性でした。彼女は、自分の子どもに藩主となってほしかったために、重熙と彼の母である浄珠院を排除しようとしたものと思われています。
その後、大槻朝元も配所で自害しました。真如院も翌年に亡くなり、事件の真相はわからないままとなっています。
いかがでしたか?
多くの歌舞伎や人形浄瑠璃、講談などの題材にもなっている加賀騒動。この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです!
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