大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一がパリで出会う栗本鋤雲(くりもとじょうん)って何者?:2ページ目
前向きな姿勢で、華麗にカムバックを果たす
しかし、そんなことで挫折してしまう性格ではなかったようで、瀬兵衛は左遷先の箱館を新天地と前向きにとらえることにしたのでした。
例えば、遊郭で蔓延していた梅毒を駆除するための医学所を設立したり、薬の原料を調達するため薬草園を経営したりと言った医者らしいことだけではなく、肉牛の畜産や養蚕事業も指導し、地域の発展に大きく貢献します。
そんな活躍が認められて文久2年(1862年)、瀬兵衛は41歳にして医籍(医者の身分)から武士に取り立てられ、箱館奉行組頭として樺太(からふと)や南千島(現:北方領土)の探検調査を命じられました。
1年ばかりの北方探検から戻った文久3年(1863年)、瀬兵衛に辞令が下って江戸に返り咲き、かつて学んだ昌平坂学問所の頭取を経て目付に登用。
目付とは老中の政策をも左右できる重職中の重職であり、瀬兵衛も「その人を得ると得ざるとは一世の盛衰に関する(著書『出鱈目草紙』より)」と振り返るほどでした。
さらには日本の近代化に不可欠な製鉄技術開発の責任者である製鉄所御用掛を経て外交を担当する外国奉行となり、幕府の財政を統括する勘定奉行と箱館奉行まで兼任したと言いますから、目の回るような激務だったことでしょう。
そんな働きが認められ、45歳となった慶応2年(1866年)、瀬兵衛は朝廷から従五位下・安芸守に叙任されたのでした。