大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一がパリで出会う栗本鋤雲(くりもとじょうん)って何者?:3ページ目
幕府の命運を賭け、パリ万博へ
「パリ、でございますか」
「そうじゃ。よく水戸公を補佐せよ」
「ははあ……」
慶応3年(1867年)1月、瀬兵衛は将軍・慶喜の弟で水戸藩主の徳川昭武(あきたけ)に随行してフランスへ渡りました。
目的はパリ万国博覧会への出展。西欧列強に対して「幕府こそが日本の代表である」ことを示して(経済・軍事・技術)支援を確保するためです。
「おのれ、薩摩の連中が勝手なことをしおって……」
薩摩藩は幕府とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」という名義で出展。独自の勲章まで作って、さも日本国内に2つの政権、いや自分たちこそが日本国の主権者であると言わんばかり。
このままでは、やがて幕府は滅ぼされる……そんな危機感から徳川昭武らが派遣されたのでした。
パリへ渡った瀬兵衛はここで渋沢栄一と出会い、共に力を尽くしてフランス・イギリスなど列強との関係構築に努めるのですが、既に日本国内の風雲急激にして、同年10月には大政奉還が行われ、徳川幕府が滅んだことを知らされます。
「何ということだ……これで、すべて水の泡か……」
しかし嘆いていても始まりません。すべきことの始末をつけて帰国の途をたどった瀬兵衛たちは慶応4年(1868年)6月、横浜港へ帰って来ましたが、既に江戸は明け渡され、新政府軍と幕府残党による戦闘(戊辰戦争)が繰り広げられていました。
エピローグ
「上様の安全が確保されている以上、ここは一つ様子を見るよりあるまい……」
明治2年(1869年)5月18日、蝦夷地は箱館まで後退しながら抵抗を続けた旧幕府軍がついに降伏。
ここに戊辰戦争が終結すると、かねてよりその能力を高く評価されていた瀬兵衛は新政府から仕官するよう誘いを受けますが、幕府への忠義からこれを辞退します。
「やはり、上様を御政道より排斥した藩閥政府への協力は致しかねる」
かくして下野した瀬兵衛は明治5年(1872年)に横浜毎日新聞社(※現代の毎日新聞とは別会社)へ入社。以降はジャーナリストとして活躍し、明治30年(1897年)3月6日に気管支炎で亡くなりました。
江戸から蝦夷地へ渡って樺太・千島を探検、さらにはパリまで雄飛した人生は、まさしく日本を生まれ変わらせる活力に満ちたものであり、また医者・武士・外交官・ジャーナリストとどんな立場でも自分に出来る最善を尽くした姿は、後世の鑑として現代に伝えられています。
※参考文献:
井田進也『幕末維新パリ見聞記』岩波書店、2009年10月
小野寺龍太『大節を堅持した亡国の遺臣 栗本鋤雲』ミネルヴァ日本評伝選、2010年4月