前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その1】:2ページ目
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大坂城での徹底抗戦を促した大演説
1868年1月5日、大坂城の大広間には、慶喜の召集に応じ、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬とその重臣たち。そして、大坂城に詰める老中・若年寄をはじめとする幕臣たちが居並んでいた。
彼らの耳に入ってくるのは、大広間の襖を震わすような慶喜の朗々たる声。
それは、時に激しく、時に物静かに、そして涙声にと、聞く者全ての感情を揺さぶった。
諸君よ、心して聞いてもらいたい。
我らは決して朝廷に敵対しようとしてこの戦を起こしたのではない。
我らが目指したのは、朝廷にはびこり、君を我がものに操ろうとする奸臣を排除することだった。
しかし、不幸にして敗戦はすでに決定的となり、賊軍とのそしりを受け、我が陣営はいま危機に瀕している。
だが、正義は我らにある。必ず天の照覧があるに違いない。
この上は、この大坂城で敵を迎え撃ち、断固死守しようではないか。
たとえ、この城が燃え墜ち、私が死んだとしても、江戸城にいる忠臣たちが私の志を継いでくれるに違いない。
諸君よ。ここは奮起一発、どうか全力を尽くしてもらいたい。私とともに国家に尽くそうではないか!(以上『会津戊辰戦史』)
前将軍が、大坂城を枕に討死の決意を固めたのだ。
満座の人々は皆、慶喜の悲壮な決意に打たれた。感激のあまり、すすり泣きを漏らす者もいる。
誰もが慶喜ともに大坂城で死することを誓った瞬間だった。
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