武田信玄が行った人材活用術。それこそが戦国最強軍団を生み出した原動力だった【後編】
偉大な戦国大名として、必ずその名が挙がる「武田信玄」。
信玄が戦国最強軍団を築けた理由として、積極的に合議制を行い家臣の意見を取り入れたことを以前に紹介しました。
武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】
今回は、合議制を行う上で重要となる、優秀な人材を活かしきる人事管理のスペシャリストとしての武田信玄に焦点をあてます。
この後編では、信玄が実践した人材活用術を中心にお話ししましょう。
ここまでの話は【前編】をごらんください。
武田信玄が行った人材活用術。それこそが戦国最強軍団を生み出した原動力だった【前編】
家中の団結力こそが国を支える
「優秀な人材こそが国を支える」との信念のもと、信玄は、さまざまな人材管理術を用いて、その有効活用に努めています。その際、なによりも心がけたのは、有能な個人を優秀な組織人として活用するための工夫でした。
戦国時代、強い大名を支えたのは、強靭な家臣団の団結力でした。
いくら大きな版図(領土)を築こうとも、家中の団結力に一度破綻をきたすと、家臣をはじめ味方勢力の離脱や裏切りが相次ぎ、あっという間に滅亡への坂道を転がり落ちていきました。
越前の朝倉氏、美濃の斎藤氏、周防の大内氏など、そんな滅亡の道をたどった戦国大名は、例を挙げればキリがありません。
そして、なによりも信玄の跡を継いだ勝頼が、家臣団の崩壊からその憂き目にあっているのです。
信玄は、いくら高い能力を持った個人を集めたとしても、優れたチームにはならないことを熟知していました。
個性を重視しスペシャリストを集めた
『甲陽軍艦(こうようぐんかん)※』には、こうした信玄についてのエピソードが書かれています。
国持つ大将、人をつかふに、一向の侍を好き候て、その崇敬する者共、同じ形儀作法の人計、念比して召し使ふ事、信玄は大きに嫌ふたり。
この言葉の意味は以下のようになります。
「同じような傾向の家臣を集めると、考えや好みも同じ傾向になってしまう。こうしたことを信玄は大いに嫌った。」
つまり、信玄は家臣を採用するにあたり、能力はもちろんのこと、個性や特技も重視しました。こうすることで、武田家中には、柔軟な考え方を持つ、様々な方面のスペシャリストが集まったのです。
※甲陽軍艦:武田氏の戦略・戦術を記した軍学書
【忖度する「イエスマン」を嫌った信玄】
さらに、信玄は常日頃、家臣たちに、
「思うことは心の内にしまわず、何事でも進言するように」
といっていました。
家臣が述べた意見がたとえ信玄と違ったとしても、決して怒らずに家臣が意見を言いやすい環境づくりを心がけたといいます。
大切な決定を行う合議の席で、忖度からひたすらに主君の意見に同調するような「イエスマン」を嫌ったのです。
こうすることで、家臣たちが能力を100%発揮できるようにしたのでした。
こうして、成果を上げた家臣には、それに応じた褒美を与え、逆に失敗をしたとしても、名誉挽回のために新たなチャンスを与えました。
このような信玄に対して、家臣達はリーダーとして信頼を深め、その結果、武田家中の結束は、堅固なものとなっていったのです。