戦国時代から泰平の江戸時代、そして動乱の幕末まで!名古屋城の歴代城主たち:4ページ目
泰平の時代に築かれた名古屋城は、対豊臣の軍事拠点! 天下人家康の九男にして最初の城主・徳川義直
慶長5(1601)年、徳川義直は徳川家康の九男として生まれました。母は側室・お亀の方(相応院)です。幼名は五郎太丸と名乗りました。
慶長12(1607)年、家康の四男である尾張藩主・松平忠吉が死去します。家康は義直に忠吉の遺領を継承させます。このとき、義直が尾張藩の藩主となったことで、尾張徳川家が始まりました。
義直は当時八歳と幼かったために、家康の居城・駿府城で養育され、尾張の国政は、平岩親吉(義直の付け家老)が代行しています。
尾張藩の中心は、当時清須城にありました。尾張藩重臣・山下氏勝は、名古屋台地への新城の築城を家康に上申します。清須城には、水害の危険性が高く、規模も大きくはありませんでした。
関ヶ原の戦い以降も、家康は大坂城の豊臣家を警戒していました。両者の緊張が高まる中、豊臣家包囲網の一環として、徳川幕府は各地の城郭を公儀普請による改修と築城を行なっていました。名古屋城の築城の前後には、丹波篠山城や丹波亀山城、伊賀上野城が改修されています。
名古屋は、江戸と大坂の中間に位置していました。戦略的重要性からは、名古屋は徳川における東海道における最大の防衛拠点となっていたのです。
名古屋城は、慶長15(1610)年から築城が開始されます。加藤清正や福島正則など、豊臣恩顧の諸大名が動員。彼らの経済力を弱めることにも目的がありました。城の縄張りには、家康も関わっています。
慶長17(1612)年、五層五階地下一階の層塔型の大天守が完成。大天守には金鯱が上げられ、尾張徳川家の象徴ともなる天守となりました。
本丸御殿が完成したのは、元和元(1615)年のことでした。同年、藩主義直は冀州和歌山藩主・浅野幸長の娘・春姫と婚儀を本丸御殿で挙行しています。
元和2(1616)年に、義直は正式に尾張国の名古屋城に入りました。
城下町の形成は、それまで尾張の中心地であった清須城からの移転(清須越し)によって行われています。
町人や職人だけでなく、寺社や町名も含めた都市ぐるみの移転でしt。
築城と同時期には、城の西側から南の熱田に至る運河・堀川の開削も行われています。
この運河は、米や野菜などの物資を運搬するために利用され、城下町の発展に絶大な効果をもたらしました。
義直は自らも藩政を行い、新田開発を推し進め、治水によって灌漑用水を整備するなどしています。
名古屋城を拠点に尾張藩の礎を築いた義直は、慶安3(1650)年に江戸藩邸で亡くなりました。享年五十一。