戦国時代から泰平の江戸時代、そして動乱の幕末まで!名古屋城の歴代城主たち:2ページ目
名古屋城前史 まさに下克上! 城主の座を奪い取り、自らの居城にした武将・織田信秀
永正8(1511)年、織田信秀は勝幡城主・織田信定の長男として生まれました。
母は織田良頼の娘・いぬゐ(含笑院)です。
父・信定は尾張国の守護代・清須織田氏(大和守家)に仕える三奉行のうち一つ(弾正忠家)を束ねていました。
弾正忠家は、勝幡城に居城を構えていました。同家は物流の集散地でもあった牛頭天王社(津島神社)の門前町・津島を支配下に置くなど、潤沢な経済力を手に入れていました。
大永6(1526)年頃、信秀は家督を相続して当主となります。
信秀は主家である清須織田家や同輩の奉行家と争うなど、尾張国内の勢力拡大に邁進していました。
天文7(1538)年、信秀は今川氏豊の柳之丸に目をつけます。信秀は強硬な力攻めをすることはなく、謀略によって城を落とすことを考えていました。
『名古屋合戦記』には、信秀が氏豊の連歌の集まりに足繁く通った様子が描かれています。信秀は柳之丸への逗留を繰り返し、氏豊の信用を受けるようになっていきました。あるとき、信秀は柳之丸の本丸に窓を開けます。氏豊は夏風を入れるためだとばかりに思っていました。
柳之丸に逗留していた信秀は、突然城内で倒れます。信秀は自分が死ぬと氏豊に告げ、家臣への遺言を頼みました。
哀れんだ氏豊は、信秀の申し出を承諾。信秀の家臣たちの柳之丸への入城を許します。
その日の夜、信秀の家臣たちは城内に放火。さらに外部から柳之丸へ兵を引き入れます。瞬く間に柳之丸は、信秀の手に落ちました。
氏豊は落城後、信秀に命乞いをしています。信秀は氏豊の命を取ることはしませんでした。氏豊はその後京へと逃げて行ったと伝わります。
その後、信秀は奪った柳之丸の名前を「那古野城」と改めました。那古野城に居城を移転すると、愛知郡へ勢力を広げていきます。
名古屋城前史 後に天下人となる武将はおおうつけ!? わずか二歳で城主となった織田信長
天文3(1534)年、織田信長は織田信秀の嫡男として生を受けました。母は土田政久の娘・土田御前です。幼名は吉法師と名乗っています。
通説では那古野城で誕生したことになっています。しかしまだ奪取する前であるため、勝幡城で誕生した説が正しいようです。
天文5(1536)年、信秀は古渡城に居城を移し、信長に那古野城を譲ります。信長がわずか二歳の時でした。以来、信長はこの城で養育されていきます。
幼少時の信長は、那古野城から凌雲寺や熱田の滝之寺へ手習いに通い、庄内川の河原を主な遊び場としていました。
『信長公記』には「十五、十六歳の頃まで朝夕に馬術の稽古を氏、川で睡蓮。家来たちには竹槍で仕合をさせていた」と書かれています。
信長には奇抜な行動が目立つようになり、周囲からは「大うつけ」と噂れていました。しかしその独特の価値観が、のちに新時代の扉を開いたようです。
天文20(1551)年、父・信秀の死去に伴い家督を相続。織田家当主となりました。
天文24(1555)、信長は清須城の尾張国守護代・織田信友(織田大和守家)を安食の戦いで撃破。その後、信友は織田信光(信長の叔父)によって討たれ、清須城は占拠されます。
当時の尾張国は、清洲城が中心地となっていました。同城にはかつて尾張国の守護所が置かれ、守護代の居城としても機能していたのです。
信長はほどなくして、信長は清洲城に居城を移転。那古野城には、叔父の信光が入城しています。