戦国時代から泰平の江戸時代、そして動乱の幕末まで!名古屋城の歴代城主たち:3ページ目
名古屋城前史 織田家の功臣は家臣に殺された!? 信長の叔父城主・織田信光
永正13(1516)年、信光は織田信定の子として生まれています。母は織田良頼の娘・いぬゐ(含笑院)です。信秀の同母弟となります。
信光は兄・信秀に従い小豆坂の戦いなどで手柄を挙げるなど、織田家中でも指折りの勇士として知られた武将です。
信秀の死後は、甥の信長の家督相続を後援し、主だった合戦にも信長方として出陣しています。
天文24(1555)年、信光は特に大きな手柄を挙げました。当時、信長の織田弾正忠家は、守護代の織田大和守家と対立していました。
『信長公記』によると、信光にも大和守家からの調略の手が伸びていたようです。信光は従うふりをして清洲城に潜入。そこで当主の織田信友を殺害して清須城を占拠しました。
信光は清須城を信長に明け渡します。信長は清須城に居城を移すと、那古野城を信光に与えました。
那古野城の拝領は、論功行賞と同時に重要拠点を任せるという意味があったようです。那古野城は、信秀と信長の居城であった城です。信光は、同族の中でもかなり信頼を得ていたようです。
しかし翌弘治元(1556)年、信光の身に大事件が起こります。
信光夫人の北の方と密通していた家臣・坂井孫八郎によって殺害されてしまいました。坂井孫八郎は、その直後に佐々孫介に討たれています。
この事件には、信長が関わっていたという説もあります。功臣となった信光は、信長にとって既に用済みと考えられていたのでしょうか。
その後の那古野城には、殺害に関与したという説がある林秀貞が入っています。
名古屋城前史 織田家一番家老から、追放の身に落ちた男! 留守居の城主・林秀貞
永正10(1513)年、林秀貞は織田弾正忠家家臣・林通安の子として生まれました。
『信長公記』によれば、信長が那古野城に入った時には一番家老の位置に列していたといいます。二番家老が平手政秀(信長の傅役)ですから、家中での発言力はかなりのものでした。
天文15(1546)年の信長の元服にも御供しており、信頼の高さがうかがえます。
弘治元(1556)年、那古野城の城主・織田信光が家臣に討たれる事件が起こります。これを受けて、秀貞が那古野城に城代(留守居役)として入城しました。
この一件に関しては、秀貞が信光の死に関わった可能性があります。どの道、一番家老である秀貞が家中の勢力争いにも深く寄与していたことは間違いありません。
しかし秀貞は、信長に一途に付き従っていたわけではありません。弘治2(1557)年には、秀貞は家督相続後の信長に反旗を翻しています。織田家重臣の柴田勝家らと織田信勝(信長の同母弟)を擁立しての挙兵でした。しかし稲生の戦いで信長に敗れています。
敗戦後は信長に許され、変わらず織田家に出仕しています。那古野城の留守居も解かれず、同城に止まっていた可能性があります。
永禄3(1560)年には、秀貞は織田家と徳川家の清須同盟の立会人も務めるなど、外交方面において多大な貢献をしています。
秀貞の武将として出陣した記録は、播磨国の神吉城攻めなどわずかしか残されていません。秀貞は、軍事よりも政治家という面で信長を補佐していたようです。
現に天正3(1575)年には、家督を継いだ織田信忠(信長の嫡男)に付けられています。天正7(1579)年の安土城の天主完成の折には、秀貞と京都所司代・村井貞勝だけが見物を許されています。
信長の信任はかなり厚く、家臣団の筆頭的位置にあったと推察できます。
しかし天正8(1580)年、秀貞の運命は一変します。信長から過去の信勝擁立の件を責められ、家中追放となりました。
秀貞は戦国時代の那古野城の最後の城主でした。秀貞を最後として、那古野城は廃城となります。