豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【前篇】:2ページ目
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豊臣家に健在する摂関家の権力と名声
徳川家康は将軍在位わずか2年で、将軍職を三男の秀忠に譲り、大御所として政治を後見します。
これは、江戸幕府の将軍職は徳川氏の世襲であることを示すとともに、朝廷や大名に天下を修める武家の棟梁は徳川氏であることを認めさせることでした。
しかし、そうした家康の意図と反するように、豊臣家の権力と名声は健在でした。
それは、豊臣家が依然として「摂関家」という高い家格を有しており、公武に君臨できる唯一の家柄と、朝廷や公家から認知されていたからなのです。
「もし、秀頼が自分の死後に関白職に就任したら、秀忠や幕閣は豊臣摂関家に対抗できるだろうか…」
晩年を迎えた家康の脳裏には、絶えずそうした自問自答が繰り返されたことでしょう。
死しても、衰えない秀吉の人気
秀頼の関白就任に対する家康の不安に拍車をかけたのが、全く衰えることのない秀吉の人気でした。
豊国神社では、毎年8月18日の秀吉忌に「豊国祭」が盛大に催され、秀吉を慕い、大名や公家だけでなく、多くの町衆も押し寄せたといいます。
秀吉の京都での人気は朝野を問わず絶大なものであったのです。
この状況に家康は、自分が生きている間に豊臣家を滅ぼさなければ、江戸幕府の未来に安泰が訪れないとの考えにいたったのでしょう。
大坂城の明け渡し要求や方広寺銘鐘事件など、様々な難問を秀頼とその母淀殿に投げかけて豊臣家の暴発を待ちました。
そして、1614(慶長19)年の大坂冬の陣、さらに翌年の大坂夏の陣で、秀頼と淀君を自害に追い込み、豊臣家を滅亡させたのです。
しかし、家康の豊臣家に対する仕打ちはそれだけにとどまらなかったのです。
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