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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」北条義時以外の構成メンバーは?その顔ぶれを紹介!

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」北条義時以外の構成メンバーは?その顔ぶれを紹介!:3ページ目

二階堂行政(生没年不詳)

母方(頼朝公と縁の深い熱田神宮の宮司を務めた家系)のコネで頼朝公に仕え、大江広元らと共に政治の実務を担った「縁の下の力持ち」的存在。

素行に関する記述などがほとんどなく、ひたすら黙々と幕府の運営に力を尽くしたことから篤い信頼を得ていたことが「鎌倉殿の13人」に選ばれた理由と思われますが、キャラクターとしては面白みに欠ける印象です。

彼をどういう性格に描き、どう立ち居振る舞わせるか、脚本家の手腕が問われる人物と言えるでしょう。

八田知家(康治元1142年~建保六1218年)

初陣は保元の乱(保元元1156年)と見られ、頼朝公の父・源義朝の代から仕えた最古参の一人。頼朝公の挙兵には逸早く従い、平家討伐に武功を立てました。

しかし、京都に入った知家は調子に乗って(頼朝公に無断で)朝廷から官位を受けてしまったため「(平家討伐で九州に遠征する)用事を忘れて道草を食っている駄馬野郎め!(大意)」などと罵倒されてしまいます。

その後は反省して各地を転戦、幕府草創の功臣として名を残すのでした。武骨ながら、ちょっと愛嬌のありそうなキャラクターです。

比企能員(生年不詳~建仁三1203年)

頼朝公の乳母である比企尼(ひきのあま)の甥。比企尼は頼朝公の流人時代から仕送りなど全力でバックアップしてくれた大恩人であるため、能員が取り立てられたのでした。

頼朝公の嫡男・源頼家(よりいえ)に娘を嫁がせ、外戚として権勢を固めましたが、北条時政・義時父子との対立によって暗殺され、比企氏は滅ぼされてしまいます(比企の乱)。

比企尼のコネで重用されたこと、そして暗愚とされる頼家の近臣であったことから無能に描かれがちですが、彼もまた「光らせ甲斐」のあるキャラクターと言えるでしょう。

4ページ目 三浦義澄、三善康信、和田義盛

 

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