大河ドラマ「鎌倉殿の13人」北条義時以外の構成メンバーは?その顔ぶれを紹介!:2ページ目
安達盛長(保延元1135年~正治二1200年)
頼朝公の流人時代から仕え、挙兵に際して各地の武士団を誘うなど外交方面で活躍。『曾我物語』によれば、頼朝公と北条政子との仲を取り持ったとも言われています。
長い付き合いもあって頼朝公から篤く信頼され、何かあるとしばしば私邸を訪ねたそうで、もしかしたら政子の愚痴でもこぼして(聴いてやって)いたのかも知れません。
そんな盛長だからさぞや出世したことだろうと思いきや、生涯を通して官職につくことはなく、無欲であったことや、そして頼朝公とフラットな主従関係を保ちたかった気さくな人柄が察せられます。
梶原景時(保延六1140年~正治二1200年)
頼朝公の懐刀として辣腕を奮い、「鎌倉ノ本体ノ武士(理想的な鎌倉武士)」と称せられた傑物。元は鎌倉党の一族として頼朝公と敵対するも、石橋山の合戦(治承四1180年)で頼朝公の窮地を救ったことで信任を得ました。
京都の公家たちとも親交が深かった文武両道の士で「一の郎党」とも高く評価されましたが、一方で讒訴(ざんそ。他人を陥れる訴え)によって多くの御家人を葬り去ったことから、後世の創作では多く「大悪人キャラ」にされてしまいます。
しかし、それは往々にして「頼朝公が心密かに望んだこと」であり、幕府の統制を保つ上で必要な「汚れ役」「憎まれ役」だったのですが、最大の理解者である頼朝公の没後はたちまち失脚。あえなく粛清されてしまったのでした。
中原親能(康治二1143年~承元二1209年)
頼朝公の挙兵直後から仕え、弟の大江広元と共に外交分野で活躍。京都と鎌倉のパイプ役として奔走し、あまりに顔が広かったせいか、ウソかマコトか「親能が鎌倉の総大将である」と勘違いされたという話もあるそうです。
一方で軍略にも才能を発揮し、頼朝公の異母弟・源範頼(のりより)の参謀として各地を転戦し、平家討伐に戦果を上げています。
その能力や功績については申し分ない御家人の一人ですが、キャラクターに癖が少ない分、今一つ印象が薄いイメージです。