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戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】

戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】

城を十重二十重に取り囲み、今にも攻めかかろうとしている敵の数は1万5千。対する味方は、素人まで動員してかき集めた500人。味方主力は遥か遠く関東地方にあり、周辺には援軍を頼める勢力もなし。

1600年7月22日の丹後・田辺城は、まさに風前の灯火でした。

しかし

「とにかく初撃を防ぐ。数日持ちこたえれば、われわれは勝てる」

城を預かるのは67歳の細川幽斎。

半世紀かけて積み上げてきたすべての資産をフル活用し、彼は芸術作品とも言うべき戦いの棋譜を残すことになるのです。

1600年、その時天下は

田辺城の戦いについて触れる前に、そこに至った経緯をかいつまんでご説明します。

天下を統一した豊臣秀吉が1598年に没すると、その遺言によって息子である秀頼が後継者となります。しかし、6歳だった秀頼に政治を主導することなどできるはずもなく、徳川家康が実権を握ることになります。

この動きに対し、秀吉によって取り立てられた石田三成を中心とした官僚たちが反発します。

政治的な駆け引きの末に劣勢に立たされた彼らは、実力を以て家康を排除することを決意。家康が当時政治の中心地であった京・大阪を離れた隙をついて兵を挙げ、秀頼の命と称して家康打倒の檄を飛ばします。

対する家康も

「三成らは秀頼様が幼いのを良いことに、命令を捏造して自分を陥れようとしている」

と徹底抗戦を宣言。
かくして、家康を中心とする東軍、三成を中心とする西軍が形成され、後に天下分け目の戦いと称されることになる「関ヶ原の戦い」に向けて事態は動き始めたのです。

丹後の細川幽斎

本能寺の変によって生じた混乱を乗り切り、その過程で豊臣秀吉から厚い信頼を得た細川藤孝。

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信長の死をきっかけに隠居して幽斎と称することになった彼は、家督を息子・忠興に譲り、自身は秀吉の顧問のような形で遇されていました。

そして秀吉の死後に起きた徳川家康と石田三成の対立では、忠興が三成と犬猿の仲であったこと、幽斎・忠興親子がともに家康と親しかったこともあり、細川家は迷うことなく家康派に合流。

三成が大阪で兵を挙げたその時、忠興は細川家の主力を連れて家康とともに関東へ出陣しており、幽斎はわずかな守備兵とともに領地である丹後(京都府北部)を守っていました。

位置関係を見れば明らかなように、家康は遠く関東にいます。(家康には他にも福島正則、黒田長政ら諸大名が付き従っていましたが、今回は細川家の話なので省略しています)

いずれは戦場で雌雄を決することになるでしょうが、まだ時間的な余裕はありそうです。
その間に三成は近畿地方の東軍勢力を制圧し、足場を固めることを企図します。

細川家が治める丹後国もそのターゲットになったのです。

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