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戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】

戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】

開戦、そして

三成の挙兵を知った幽斎は、遠からず丹後への侵攻があることを予見します。先述の通り細川家の主力は当主・忠興と共に関東にあり、丹後にはわずかな兵しか残っていません。

「兵力を分散しては各個撃破されるだけだ」

そう判断した幽斎は、主城である田辺城にすべての兵力と物資を集中し、籠城することを決断します。さらに幽斎を慕う僧や農民、商人なども志願兵として集まり、田辺城の兵力はかろうじて500人に達しました。

一方の西軍は1万5千。続々と丹後国内に侵入し、田辺城を包囲。7月22日には攻撃が始まりました。

細川軍は幽斎の指揮の下、寡兵ながらよく戦いました。

当代随一の文化人であった幽斎は交友関係も広く、包囲軍の中には彼を師と仰ぐ人物も少なくありませんでした。そのため攻撃側が手心を加えたという説もあります。

しかし圧倒的な兵力差は如何ともしがたく、このままでは落城は必至ということは誰の目にも明らかでした。

降伏という選択肢

そんな状況下で、降伏するという選択肢はなかったのでしょうか?

幽斎が選択肢として考えなかったとは思えませんし、西軍からも何らかの形で降伏勧告はなされていたでしょう。

しかし、それを選ぶことはできませんでした。降伏すれば、これまで積み上げてきたすべてを失うことが明白だったからです。実は西軍が丹後に侵入する少し前、大阪では一人の女性が命を落としていました。

彼女の名はたま。洗礼名のガラシャで知られる、忠興の正室でした。

挙兵した石田三成は、大阪にいたガラシャを人質に取ろうとしました。
忠興は愛妻家(しかもちょっと度を過ぎるくらいの)として知られていたので、成功していれば忠興と細川家の面々には大きなプレッシャーとなったことでしょう。

が、その目論見は外れます。

ガラシャは人質に取られるくらいならと、自ら死を選んでしまったのです。ガラシャ自身の意思ではなく、忠興の指示(妻を他の男に取られるくらいなら殺す)だったという説もあります。

 

どちらが真相だったにせよ

「細川家当主の妻が、人質になることを拒んで命を落とした」

という事実に間違いはありません。そしてガラシャが死んだ以上

「細川家の先代当主が、命を惜しんで降伏した」

などとなっては、これまで積み重ねてきた名声のすべてを失い、社会的には死んだも同然になってしまいます。

あるいはそうした打算を抜きに、不幸な死を遂げた嫁への義理立てという側面もあったのかもしれません。

いずれにせよこの状況下では徹底抗戦以外の選択肢はなく、兵力差が圧倒的な以上、死は免れない。できるのは死に方を選ぶことだけ……となるはずでした。他の武将であれば。

しかし、細川幽斎だけは違ったのです。

次回【京からの使者、天皇動く】に続く

 

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