なんと生涯で敗訴73回!それでもめげない戦国武将・曲淵吉景のまっすぐで不器用な人生:3ページ目
「お父上から受けた御恩を……」落ちぶれた弥次郎に最期まで仕える
かくして一度は板垣家を離れた勝左衛門が再び戻って来たのは、十年以上の歳月が流れた弘治三1557年ごろ。
天文十七1548年「上田原の合戦」で信方が討死してしまい、その嫡男である板垣弥次郎信憲(やじろうのぶのり)が家督を継承します。
しかし、この弥次郎は父と違って将器に乏しく、また世襲した役目も怠ったことにより、とうとう追放されてしまいました。
甲府の長禅寺(現:山梨県甲府市)に押し込められ、板垣家中の誰もが見捨てた弥次郎を、勝左衛門だけは見捨てなかったのです。
晴信に暇を乞うて長禅寺に駆けつけ、先代・信方より受けた恩義を返すためとして、弥次郎と共に寝起きし、懸命に仕えたと言います。
「お父上から受けた御恩を返すのは、今この時を措いてなし……この勝左衛門、必ずや若君を盛り立てましょうぞ!」
「……忝(かたじけな)い……」
これで弥次郎が心を入れ替え、再び武田家の柱石として返り咲ければハッピーエンドのですが、残念ながら弥次郎は、予ての不行跡で怨みを買っていた本郷八郎左衛門(ほんごう はちろうざゑもん)によって殺されてしまいます。
「おのれ……これは、御屋形様(晴信)が命じたに違いない!」
主君の仇!とばかりに晴信へ詰め寄った勝左衛門でしたが、誤解である(反省次第では赦すつもりでいた)ことが解ると素直に非礼を詫び、また晴信も「(どんなにダメな主君でも)最期まで忠節を尽くした」ことを評価し、赦したという事です。
以降は武田家きっての猛将・山形昌景(やまがた まさかげ)に仕え、名前から「景」の一文字を拝領して吉景と改名。武田家の精鋭部隊である「赤備(あかぞなえ)」の一員として、かつての同輩である郷左衛門や伝右衛門と共に暴れ回ったのでした。