起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その4】:2ページ目
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三河帰還と徳川への改姓
8代目当主の広忠が若くして死亡したことにより9代目を次ぐはずであった家康だが、人質として今川家に囚われている身であったため、三河への帰還は叶わなかった。
松平家の本拠地であった岡崎城には、今川家の家臣が城代として入城したため、松平家の三河支配は一時的に中断した。
しかし、1560年の「桶狭間の戦い」で今川家当主・今川義元が織田信長に討たれると、家康は今川家が放棄した岡崎城に入城。今川家から独立の道を探っていく。
その後は、伯父・水野信元の仲介もあって織田家と同盟を結び(清洲同盟)、1563年に「家康」と改名。1566年、朝廷から藤原氏を認められ「従五位下三河守」に叙任されたことを契機に「徳川」姓を名乗った。
その後の松平家
家康は「徳川」姓を松平一族の中でも別格の扱いとするため、自身の一家だけに名乗らせ、一族庶家の姓は「松平」に留めた。
江戸時代になり徳川の治世になると、「徳川」姓は将軍家や御三家など、本家を継承できる一部の血筋だけが名乗ることを許された。
「松平」の姓は、御三家の分家などの親藩の家で用いられ、その子孫も多くが大名や旗本となり、多数の松平家が存続した。
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