戦国時代、日本の地で剣術を修めた外国出身の武士「李家元宥」のエピソード【上】
武士と聞くと、多くの方は日本人を想像すると思いますが、中には織田信長(おだ のぶなが)に仕えた黒人武士・弥助(やすけ)のように、ごく少数ながら外国出身の武士も存在していました。
今回はそんな一人・李家元宥(りのいえ げんゆう)のエピソードを紹介したいと思います。
父・李福男の決意
李家元宥は李氏朝鮮の宣祖二十二1589年、羅州(現:大韓民国全羅南道)で判官を務める李福男(イ ボンナム)の子として誕生。李聖賢(イ ソンヒョン)と名づけられました。
聖賢が4歳となった宣祖二十五1592年、李氏朝鮮が日本国への服属を拒否したことにより、太閤・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が朝鮮半島へ出兵。後世に伝わる「文禄・慶長の役」の火蓋が切って落とされます。
福男は7月、鄭湛(チョン ヂム)らと共に熊峙の地で日本の小早川隆景(こばやかわ たかかげ)らを迎撃、奮戦するも力及ばず撤退。その後、明(みん)からの援軍によって日本軍を押し返し、翌宣祖二十六1593年になって休戦が成立しました。
「此度はどうにか追い払えたが、このままでは終わらんじゃろうな……」
妻と幼い聖賢を抱え、その身を案ずる一方で、福男は心中「次こそは赫々たる武勲を」と誓いながらその時を待ち、やがて日李(日本・李氏朝鮮)の講和交渉が決裂した宣祖三十1597年。14万余の軍勢を従えて、再び日本軍が攻めて来ました。