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卑弥呼のモデル?それともライバル?神功皇后に征伐された土蜘蛛の巫女王・田油津媛

卑弥呼のモデル?それともライバル?神功皇后に征伐された土蜘蛛の巫女王・田油津媛:2ページ目

田油津媛の率いた「土蜘蛛」について

田油津媛の人物像を探っていく前に、まずは彼女が統治していた土蜘蛛(つちぐも)についてサラッと紹介したいと思います。

土蜘蛛なんてちょっと物々しい感じですが、これは特定の部族名ではなく、日本(倭国)の中央を支配しているヤマト政権に順(まつろ)わぬ=敵対する諸部族に対する蔑称(差別的な呼び名)です。

彼らは建築文化が未発達であったことから、多くの者が自然の洞窟、あるいは山肌を掘って住居としており、そこから出入りする様子を「土籠(つちごも)」、それが転じて土蜘蛛に喩えられたのでしょう。

そんな土蜘蛛一族を従える田油津媛は筑紫国の山門縣(やまとのあがた。現:福岡県みやま市、柳川市)を統治しており、彼女を卑弥呼のモデルと考える方は、山門縣こそが邪馬台国だったのではないかと唱えています。

田油津媛が登場する文献は、日本最古の歴史書である『日本書紀(にほんしょき)』。時は仲哀天皇九200年(※)3月、神功皇后(じんぐう こうごう。第14代・仲哀天皇の皇后)によって討ち取られたことが記されているのみです。

(※)神武天皇の即位を紀元前660年として、記紀神話を元に割り当てています。

……丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛……
※『日本書紀』巻第九より。

【意訳】丙申の時(日にち?)に神功皇后は山門縣にやって来て、土蜘蛛の田油津媛を退治した。

どういう理由で退治されてしまったのかは不明ですが、恐らくは叛乱を起こして鎮圧されたものと考えられます。

だとしたら、なぜ田油津媛は叛乱を起こしたのか?詳しい動機については記録がないものの、叛乱の前後状況を確かめることで、挙兵のキッカケくらいはつかめそうです。

3ページ目 仲哀天皇に攻められた熊襲への援軍として挙兵?

 

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