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城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【下】

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城が欲しくば力で奪え!お田鶴の方が示した武士の在り方

さて、曳馬城下へ到着した徳川家康はいきなり攻めるような事はせず、後藤太郎左衛門(ごとう たろうざゑもん)を使者に立て、お田鶴の方に帰順するよう勧告しました。

「無駄な血は流しとうない……城さえ明け渡さば、所領は安堵いたそう」

女子(おなご)はとかく安定を求め、我が子が可愛いもの。義広へ譲る所領さえ安堵してやれば、容易く降(くだ)るであろう……そう踏んだ家康の下にはお田鶴の方の実家・鵜殿一族も臣従していました。

しかし、お田鶴の方は首を縦には降りません。

「使者殿……鵜殿の者どもに伝えるがいい。我が兄(鵜殿長門守藤太郎長照)を裏切ったこと、断じて許さぬ!」

「……承知」

「……そして、徳川殿にお伝えせよ。妾は女子なれども武夫(もののふ)が家に生(はべ)りし上は、飯尾の家名に賭けておめおめ城を開くことなりませぬ、と」

城が欲しくば力で奪え。それでこそ武士であろう……およそ18歳のうら若き女性が発するセリフとは思えませんが、戦国乱世に生きる武士としての覚悟を、人一倍備えていたのでしょう。

しかし、太郎左衛門の報告を受けた家康は、お田鶴の方の悲壮な覚悟を冷笑し、また哀れんだのでした。

「若い。若すぎるのぅ……その純粋さゆえに死を急ぎ、家臣や領民の命を損なうとは……」

とは言え、ここで引き下がる訳にもいかない家康は12月24日、酒井左衛門尉忠次(さかい さゑもんのじょう ただつぐ)と石川伯耆守数正(いしかわ ほうきのかみ かずまさ)を先鋒に曳馬城を攻め立てます。

「降りたい者は降るがいい!いっときの命を惜しまず、遠州武士の矜持をまっとうせん者のみ、妾に続け!」

お田鶴の方は鎧に身を固めて薙刀を奮い、最前線で徹底抗戦。徳川方300余り、城兵200余りの犠牲を出す激しい攻防が日没後も繰り広げられました。

「敵を一睡もさせるな!かかれ、かかれ……っ!」

元より死ぬ気でいるゆえ、休息なんて必要ない……お田鶴の方は手分けして夜襲を繰り返し、縦横無尽に徳川方の陣中を掻き乱します。

しかし、夜が明けると流石に疲労困憊、圧倒的優勢の徳川方に押され続け、二の丸、三の丸が陥落。ついに本丸を残すのみとなってしまいました。

3ページ目 壮絶な最期と、手向けられた椿の花

 

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