「どうにかなろう」じゃ日本が滅ぶ!今こそ伝えたい幕末の名臣・小栗上野介の生き様と名言【上】:2ページ目
小栗上野介の生涯を辿る
小栗上野介忠順は文政十1827年6月23日、江戸で旗本・小栗忠高(おぐり ただたか)の子として誕生。幼名は剛太郎(ごうたろう)、元服して忠順(ただまさ)と名乗り、17歳で幕臣として徳川将軍家に仕えました。
若い頃から文武両道の士として抜擢されますが、才能に驕ってか歯に衣着せぬ言動が同僚や上司に疎まれることも間々あったようです。
しかし、それでも真摯に奉公する忠順の至誠は多くの者から評価され、次第に声望も備わっていきました。
そんな忠順の転機となったのは嘉永六1853年7月8日、開国通商を求めて黒船つまりペルリ率いる米海軍・東インド艦隊が浦賀に来航した事件でした。
幕府が圧倒的な海軍力の差ゆえにペルリと同等に交渉できず、不平等な条件を呑まされた屈辱から、国力を増強するべく欧米列強と積極的な通商を主張するようになります。
安政二1855年に父・忠高が亡くなると家督を継いで小栗豊後守(ぶんごのかみ)を称し、安政七1860年には遣米使節に同行。日米修好通商条約の通貨交換比率の見直し協議やワシントン海軍工廠の視察などを通して、製鉄および造船技術に強い関心を持つようになったのでした。