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「どうにかなろう」じゃ日本が滅ぶ!今こそ伝えたい幕末の名臣・小栗上野介の生き様と名言【上】

「どうにかなろう」じゃ日本が滅ぶ!今こそ伝えたい幕末の名臣・小栗上野介の生き様と名言【上】

帰国後、外国奉行勘定奉行(就任した文久二1862年、上野介を称する)を歴任した忠順は、文久三1863年に製鉄所の建設を提言。十四代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)の承認により、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指揮で建設を進めました。

これが後に横須賀海軍工廠となり、海洋国家・日本の近代化に大きく貢献するのですが、他にもフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化や、経済面では関税率の改定交渉や大商社の設立による海外貿易支援、日本初の本格ホテル「築地ホテル舘」の発案など、後に討幕派さえも一目おく手腕を発揮しました。

しかし、そんな忠順も戊辰戦争(慶応四1868年1月3日~明治二1869年6月27日)が始まると、新政府軍に対して徹底抗戦を唱えたため、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)により「過激な主戦論者」として罷免されてしまいます。

忠順の才覚と軍略を惜しむ者たちが米国への亡命を勧めたり、彰義隊(しょうぎたい)の隊長に推したりするも、彼は「主君に戦うつもりがないなら、自分も戦う理由がなく、最後まで忠節を全うしたい」と断り、やがて領地である上野国群馬郡権田村(現:群馬県高崎市倉渕町権田)の東善寺に隠居。

4ページ目 新政府軍によって斬首される忠順

 

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