武士が小細工を弄するな!鎌倉武士の鑑・畠山重忠の高潔なエピソードを紹介:3ページ目
ちょっと待った!盛通の恩賞についた物言い
さて、2月6日の論功行賞において、則宗を生け捕った手柄で盛通が恩賞に与ろうとしていた時の事です。
かねがね盛通の事を快く思わない真壁内舎人秀幹(まかべの うどねりひでもと)という御家人がおり、彼がこんな事を言い出しました。
「則宗の生け捕りは波多野殿の手柄ではない!偶然近くに居った畠山殿が取り押さえたのだから、恩賞は畠山殿に賜るべきだ!」
【原文】
「……則宗を生虜る事、さらに盛通が高名(かうみやう)にあらず。重忠虜るの由これを憤り申す……」
※『吾妻鏡』正治二1200年2月6日条
この時、原文では秀幹は盛通に対して「阿黨(あとう)の思ひ」をなしたと書いてありますが、阿黨とは「阿(おもね)り黨(くみ・党)する」ことであり、この文脈だと盛通に取り入るために発言したとも読めます。
しかし、それでは話の辻褄が合わないため、阿黨の対象は重忠であり、秀幹は「重忠に取り入るため、盛通をディスった」or「盛通の足を引っ張る目的で、重忠の手柄を主張した」というニュアンスで書いたのかも知れません。
ともあれそんな物言いがついたので、盛通への恩賞はいったん保留として、重忠が呼び出されたのでした。