大砲ぶっ放し天守閣に命中!「大坂の陣」で活躍した徳川軍の砲術師・渡辺三郎太郎とは何者か?
「放てーっ!」
時は慶長19年(1614年)、徳川家康が豊臣秀頼を討伐するべく兵を挙げた「大坂冬の陣」。
亡き豊臣秀吉が築き上げた天下の名城・大坂城は堅牢無比にして難攻不落、なかなか攻め切れませんでした。
そこで業を煮やした家康は、大坂城内へ向けて大砲を撃ち込んだと言います。
多くが南蛮から輸入したそうですが、中には国産の大砲もあったとか。
今回は日本の国産大砲を製造した徳川軍の砲術師・渡辺三郎太郎(わたなべ さぶろうたろう)を紹介。果たして彼は、どんな人物だったのでしょうか?
九州・豊後の大友宗麟に仕える
渡辺三郎太郎は生年不詳、豊後国(現:大分県)の戦国大名・大友宗麟に仕えていました。
三郎太郎という名前は通称で「三郎さんとこの太郎」という意味です。諱(いみな。実名)は分かっていません。
出自についてもよく分かっていませんが、嵯峨源氏(渡辺綱ら)の末裔ではないでしょうか。
さて、この三郎太郎は主君の命で唐入り(大陸・明王朝へ渡航)し、石火矢の製造と射撃法を学んできました。
石火矢というのは火薬を用いた原始的なロケット弾のこと。開発初期はロケット花火くらいの威力(虚仮威し?)しかなかったようですが、次第に殺傷能力が高まり、また大砲へと発達していきました。
ここで言う石火矢とは、大砲など重火器全般を指します。すっかり砲術を学んだ三郎太郎ですが、肝心の大友宗麟が薩摩国(現:鹿児島県西部)の島津義久に滅ぼされてきまいました。
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