大砲ぶっ放し天守閣に命中!「大坂の陣」で活躍した徳川軍の砲術師・渡辺三郎太郎とは何者か?:2ページ目
砲術の腕前を評価されて徳川家康に再仕官
主君の没落に従うように三郎太郎は出家し、宗覚(そうがく)と称します。流浪の末に豊後国の府内城主・早川主馬に保護され、無聊をかこちていました。
「渡辺殿の砲術を、このまま朽ちさせるのはまことに惜しい。これは徳川殿へ紹介しよう」
という訳で、早川主馬は宗覚父子を徳川家康へ引き合わせます。
強力な砲術を目の当たりにした家康はさっそく宗覚を取り立てて、たびたび御用を命じたのでした。
慶長5年(1600年)に家康が石田三成らと争った関ヶ原の合戦でも大砲を用いていますから、宗覚の砲術が活躍したのかも知れませんね。
そして大坂冬の陣では、冒頭のごとく大砲が大活躍です。
城内深くは届かずとも、轟音で豊臣方の心身を参らせようと思っていたところ、まぐれの一発が天守閣に当たって淀殿(秀頼母。茶々)を震え上がらせたとか。
これが豊臣方の戦意を削ぎ、講和につながったとの説もありますから、大殊勲と言えるでしょう。
翌慶長20・1615年の大坂夏の陣でも宗覚の大砲は火を噴いたようで、合戦は大勝利。ついに豊臣家を滅ぼしたのでした。
終わりに
……渡辺三郎太郎といふは。元豊後の大友が家人なるが。大友の命にて入唐し。石火箭の製作をよび放し様をならひ心得て帰国しけるが。大友亡て後は三郎太郎も流落し宗覚と改名し。同国府内の城主早川主馬が方に寓居してありしを。主馬よりかの石火箭を御覧に入しかば。こは軍用にかくべからざるものなりとて。宗覚父子を召出され。度々御用を仰付られ。殊に大坂冬の役には。駿府へめし石火箭調して奉り。夏の役にも供奉し。落城の後城中にて焼し銅鉄の類を。ひとつに吹まとめて奉り。後年に至り領邑を賜はり。世々この御用奉る事となりぬ。(貞享書上。)……
※『東照宮御実紀附録』巻二十四「制作大砲」
以上、徳川家康に仕えた砲術師・渡辺三郎太郎のエピソードを紹介してきました。
その後、渡辺父子がどうなったのか、子孫たちがどうなったかについては改めて調べたいと思います。
【渡辺三郎太郎・基本データ】
生没年不詳
改名 幼名不明→三郎太郎(通称)→宗覚(法名)
両親 父親:渡辺某(三郎?)/母親:不明
家族 息子の存在が確認できる
主君 大友宗麟→早川主馬→徳川家康
所領 不明
特技 砲術
徳川家康の天下取りを支えたのは、ただ前線で戦う勇士ばかりでもなければ、後方で事務をとる能吏ばかりでもありませんでした。
様々な特殊技能をもって活躍した家臣たちのエピソードも、また紹介できたら嬉しいです。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション砲術