明治時代に持ち込まれた概念「Right」は権利?権理?福沢諭吉の「理」へのこだわり:2ページ目
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暴走する「権利」を懸念
その一方で「権利」はどうでしょうか。
もちろん追求した「利」が天下公益に供することもなくはないでしょうが、その利は必ずしも理に適ったものとは限らず、往々にして私利私欲のために社会公益を損なってしまう事例は、古今東西枚挙に暇がありません。
いわゆる「モンスター〇〇」などまさにその悪例で、事あるごとに「権利」をはき違えて自分たちの利益ばかりを要求して、他人の迷惑などはお構いなし。みんながみんな際限なく私利私欲を追求したら、遠からず社会は破綻してしまいます。
そういう概念はそもそもRightではなく、仮にあったとしてもそんな悪しき欲望を日本に採り入れたくなかったからこそ、福沢諭吉は権利の暴走を懸念し、異を唱え続けたのでしょう。
まとめ
「米国があなたのために何をするかを問うのではなく、われわれが人類の自由のために、一緒に何ができるかを問うてほしい」
※1961年、ケネディ大統領の就任演説より。
個人は社会におけるお客様ではなく、共に社会を支え、よりよいものにしていくスタッフでありパートナーであり、主人公である。
そうした主体性をもって社会に参加して欲しいし、そのために必要なRightこそ、国家の主権者たる「権理」である。
維新が成り、政治の門戸が開かれた明治の世なればこそ、福沢諭吉は多くの日本人に対して「権理」をこそ訴え、呼びかけたのでした。
そんな福沢諭吉の思いは、現代の私たちと社会との関係性にも深く通じます。
※参考文献:
福沢諭吉『学問のすゝめ』講談社学術文庫、2010年3月19日 第11刷
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