明治時代の水上バス?軍艦として活躍した蒸気船も明治に入り「一銭蒸気」として庶民の足に
文明開化により、大きく様変わりした日本。街を歩く洋装の人々、京橋のガス灯、銀座の煉瓦街、新橋と横浜間で開通した蒸気機関車。その変りぶりは当時の浮世絵で垣間見ることができます。
多くの河川が流れていた江戸の町には、渡し舟が運航していました。その渡し船も文明開化によって変貌を遂げます。
前回の明治時代の蒸気機関車に続いて今回は明治庶民の足であった水上バス「一銭蒸気」をご紹介します。
あの黒船も蒸気船
ペリーが四隻の軍艦を率いて浦賀に来航したのは有名なお話し。この四隻のうちの二隻は今回ご紹介する蒸気船でした。
「太平の眠りを覚ます蒸気船。たった四隻で夜も眠れず・・・」と誰かが歌ったように、煙をモクモクを噴き出す大きな黒い船に日本人は驚愕しました。
このアメリカの軍事力を目の当たりにした江戸幕府は、西洋式艦船を導入。薩摩藩や長州藩などの雄藩も続々と蒸気船を購入しました。福沢諭吉や勝海舟が乗船してアメリカへ渡航した咸臨丸も蒸気船です。
戊辰戦争では軍艦として活躍した蒸気船ですが、戦争が終わり明治時代に入ると庶民の足として、平和的に利用されることになります。