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大谷吉継は友のために、鳥居元忠は主君のために…それぞれの想いのために関ヶ原の戦いで散った2人の武将たち

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徳川家康と鳥居元忠の絆!「わしのために死んでくれぬか?」

元忠は家康の人質時代から近習として苦労を共にしてきました。今川氏から独立した後、元忠は旗本先手役という合戦では一番先に敵陣に突撃していく精鋭部隊の1人となりました。

人質時代から約50年の間多くの合戦と苦楽を共に過ごしていく内に元忠のことを家康は家臣ではなく友や幼なじみと思っていたかもしれません。

しかし、元忠は家康のことを主君として見ていました。

それを頷ける要因は感状を一切受け取らなかったことにあると思います。感状とは手柄を立てた者に主君が評価を加えるいわば、成績表なもので他家に再仕官する際に非常に有利なものでした。

元忠はこれを家康以外に仕える気がないということで拒否し続けたそうです。

もしかしたら、元忠も家康のことを友と思っていましたが、態度には出すことなくこのような行動で示したかもしれませんね。

そして、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いが起こる前の7月中旬、家康は反逆を企てた上杉景勝のいる会津を攻めるために大坂を発ちました。

元忠の役目は三成と景勝の挟撃を防ぐため、京都の伏見城で三成率いる西軍の足止めでした。

残った元忠の元には1,800人の兵士のみ。また降伏は許されない状況の中で40,000人の西軍と戦うということは「死ぬまで戦え」と言われていると同じでした。

それでも元忠は家康の勝利のために戦い続け13日間西軍を伏見城で足止めし、城を枕に玉砕しました。

家康の勝利に大いに貢献した元忠はその忠義から「三河武士の鑑」と称されることになりました。

最後に

戦一つとっても様々な武将たちのドラマがありますね。

このようなドラマがあるからこそ現代の私たちは武将に対して理解を深めるとともに想いに触れることができると思ってしまいますね。

 

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