混沌の極み!みかんラブな日本で起きた明治時代のミカン抗争!江戸時代にはミカン税も
冬と言えば「こたつにミカン」ですよね!
最近では「こたつにアイスクリーム」なんて言われてもいますが、まだまだ日本人にはミカンLOVEのDNAがすり込まれていることでしょう。手も汚れないし皮はむきやすいし、程よい甘さで最高です。
時代を超え愛されるミカン、江戸時代でも紀州産の「有田のみかん」は大人気、毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」では、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習もありました。
そんなミカンをめぐり、実は明治になり現在では想像できない利権争いが起きていたのでした。
紀伊国屋はミカンで富豪に
熊野街道沿いの有田郡糸我庄。そこでは古代の頃からミカンが自生し、室町時代後期には熊野詣でのお土産品として珍重されていました。
それを天正2年(1574年)頃に品種改良したのが庄屋の伊藤孫右衛門。彼は「高田小みかん」という美味な品種と「有田のみかん」を掛け合わせ、「紀州小みかん」を造り上げました。この紀州小ミカンがいわゆる紀州のミカン、「有田みかん」として普及しました。
大坂・京都で評判になると、江戸でも売れるだろうと目論見、輸送する商人も続々現れます。寛永11年(1634年)に宮原組滝川原村の藤兵衛という者が初めて輸送した時は、約22キロが一両という高値で売れ
たそうです。当時の貨幣価値は一概には言えませんが、大体一両5万~6万でしょうか。
当時は西から東への大量輸送には船が使われており、東回り航路と西回り航路などができあがってきており、菱垣廻船や樽廻船と呼ばれる定期船とそれを取り扱う廻船問屋が登場していました。
ミカンで財を成したなかには、紀伊国屋文左衛門もいました。紀伊國屋は材木商としてのイメージが強いのですが、実は彼は紀州生まれ。
貞享2年(1685年)、ミカン豊作だったにも関わらず悪天候が続き江戸へ運べなかった年に、西では過剰供給で暴落していたミカンを買い集めて大荒れの海に船を出し、決死の運搬に成功した話が有名です。