混沌の極み!みかんラブな日本で起きた明治時代のミカン抗争!江戸時代にはミカン税も:3ページ目
明治維新でミカン下克上
大政奉還、明治維新でその体制は揺らぎます。藩そのものがなくなったのだから当然ですよね。
明治2年には、江戸時代には必要だった「関所通行鑑札」が不要になり、苗字帯刀の特権も無くなったそうです。ミカン農家や蜜柑方にとっては庇護をしてくれた紀州藩が無くなり、蜜柑税も思いのままに徴収できなくなる恐れが。
そして思った通り東京では新しい問屋が続出、ミカン生産者と直接取引をする業者も出てきて、秩序が乱れ始めます。これではいかん、と有田郡糸我庄の有志が集まり「新密柑会社」を明治8年に設立します。
ところが「蜜柑方」の組合株を有していたの一部は「旧密柑方」として残り、新旧蜜柑方の争いが生まれてしまったのです。そして廻船問屋や仲買人を巡っての争奪戦が繰り広げられ幾星霜。再びこれではいかん、と一本化する動きが出てきます。
そして明治14年「有田郡蜜柑方会議」が成立するも、明治17年には再び3組に分立。紀州藩改め和歌山県の元、「宮原組」「藤並組」「石垣組」の法的組合が設立され事業を行うこととなりました。
それでも三社の運営に不満を持つものたちが「改良組」を作り、対抗します。もはや混沌の極みです。
事態が収拾するまでには明治38年まで待たなくてはなりません。農林大臣の認可を得て「紀州有田柑橘同業組合」が設立されます。
40年近く経ってようやく密柑方に代わる機関が誕生したことになります。ちなみに当時のミカン栽培者の90%近くがこの機関に参加したということです。
戦後はGHQにより『農業協同組合制度』の設立が進められ(いわゆる農協)、その役割は終えたのでした。
明治維新による悲喜こもごも、ミカン以外にも色々ありそうです。
参考サイト:ありだの観光情報、有田みかんデータベース