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「とんでもない女!」源氏物語の作者・紫式部の痛烈な清少納言バッシングの真意とは?

「とんでもない女!」源氏物語の作者・紫式部の痛烈な清少納言バッシングの真意とは?

清少納言の主人・皇后定子の悲劇を知っていた紫式部

紫式部は同日記の中で、さらに続けてこう書いています。

「かく、人に異ならむと思ひぬる人は(中略)いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまになるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかよく侍らむ」

簡単に言えば
「あのような人と違うことばかりを好む人は、ぞっとするようなひどい時にも「素敵♪」と感動することを見逃さないから、そのうちに自然と現実からかけ離れたイタい人になるのよ」
とまで清少納言を批判した紫式部。

紫式部が中宮彰子の女房として宮仕えを始めた頃には、清少納言は既に宮中を退出していました。従って紫式部は、清少納言と面識があったわけではないと言われています。

清少納言が仕えた皇后定子と言えば、一条天皇の最初の后にして最愛の正妃でした。しかし定子の父・藤原道隆が亡くなった後、兄の伊周が花山法王に矢を射かける事件を起こすなどして実家が没落し、更に藤原道長の娘・彰子が無理矢理に中宮の位に据えられ「二后並立」という前代未聞の事態になるなど、不運に見舞われます。

そして紫式部が宮中に上がる前に、渦中の定子自身も出産の床で亡くなりました。

これらを噂に聞き及んでいたからこそ、紫式部は「自分の主人があんなとんでもなくつらい目にあっていた最中に、楽しいことだけを書き綴っていた清少納言ってとんでもない!」と感じたのでしょう。

現代なら、とんでもない不幸に見舞われた芸能人が、そんな時期にさえ「インスタ映え」を意識したかのようなSNS投稿ばかりしていることを批判するような感覚でしょうか。

3ページ目 紫式部の思いは後に『源氏物語』に投影された

 

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