教科書ではネガティブな印象だけど…幕末の日本を救った立役者・井伊直弼
日本の歴史に名を残す、井伊直弼とは?
幕末の動乱期に江戸幕府の臨時の最高職「大老」に任じられ、「日米修好通商条約」に調印し、それまで鎖国をしていた日本の4つの港を開いた人物、井伊直弼。学生時代に歴史があまり得意ではなかったけれど、この人の名前は覚えているという方も多いのではないでしょうか。大河ドラマで話題となった「おんな領主」井伊直虎とも血縁関係にあたります。
朝廷の許可なく条約に調印し、「安政の大獄」で吉田松陰ら幕末の志士たちを粛正したなど、歴史の教科書ではネガティブな印象を持たれがちな井伊直弼ですが、実際はどうだったのでしょうか?
直弼の生い立ち
悪役のイメージを持たれがちな井伊直弼は、実は多くの人々に慕われた名君でした。
彦根藩主・井伊直中の14男として誕生した直弼は、家督を継ぐことも養子に出ることもできず、17歳から32歳までを「埋木舎」という屋敷で学問と武芸に励みながら質素に生活していました。「埋木舎」とは直弼が、出世が望めない自身を「地中に埋もれて花が咲くこともない埋もれ木」に例えてつけた名前です。
後に家督を継いだ兄に子供ができず、他の兄弟たちはみんな養子に出てしまっていたために、直弼は36歳にして彦根藩主に抜擢されるという幸運に恵まれます。
藩主となった彼は、先代が残した莫大な遺産を彦根藩の民や家臣に分け与え、名君と呼ばれました。
そんな直弼が朝廷の許しを得ずに条約に調印を強行したのは、「今の江戸幕府には、外国と戦争をする力はない。逆に外国と国交を行い、国力を蓄えていく方が賢明だ」と判断したからでした。
もし開国を拒否してアメリカと戦争をしていたら、日本という国は現在の様な形では存在せず、世界地図も現存するものとは違うものとなっていた可能性があります。ですから井伊直弼は、悪役というよりは、むしろその後の日本の未来を救った立役者と言えるでしょう。