大河ドラマ「光る君へ」の物語にどう絡むのか?興福寺の僧侶・定澄(赤星昇一郎)と慶理(渡部龍平)とは何者?:2ページ目
大和守との抗争
かくして大和国の実質的な統治者として権勢を誇った定澄。
「興福寺とは争うな」
それが大和守はじめ官人たちにとって暗黙の了解でしたが、寛弘3年(1006年)に着任した大和守・源頼親(よりちか)は違いました。
源頼親は清和源氏の流れをくむ源満仲(みつなか)の子。後に藤原道長から「殺人上手」と評された武勇の士です。
着任から間もなく頼親は興福寺と所領争いを起こし、互いに一歩も引きません。
定澄は朝廷の藤原道長に対して頼親の解任を要求しました。
しかし道長は気乗りがしなかったのか、なかなか解任には至りません。
業を煮やした定澄は、寺僧ら二千余人を動員して京都洛中へ殴り込む騒ぎを起こしました。
慶理はこの時に参加した荒法師(僧兵)の一人なのでしょう(※詳細不明、恐らく創作人物と思われる)。
寛弘8年(1011年)には大僧都(だいそうず)となった定澄。しかし興福寺の大和守の抗争は絶えず、寛弘6年(1009年)には寺僧が大和守・藤原輔尹(すけただ)の従者を殺害してしまいます。
これについて定澄は弁解に努めたものの、道長は「山門と国司の抗争が絶えないのは別当の監督責任だ」と叱責しました。