自身の宝は家臣たち!天下人・徳川家康を支えた重臣「徳川四天王」を一挙ご紹介:2ページ目
文武両道の士・榊原康政
2人目は、徳川三傑に数えらえた榊原康政です。
康政は、13歳の頃から家康に仕え、初陣は永禄6年(1563)の三河一向一揆でした。この戦いでの武功から、家康から「康」の字を貰っています。康政は部隊の指揮官としての能力は本多忠勝に勝り、井伊直政に匹敵するとの評価を受けています。
加えて、康政は直政と親友関係で、「家康の心中を知っているのは私と直政だ」と言うほどの深い交流を重ねていました。
また、康政は幼少の頃より勉学を好み、書を読んでいたこともあり、字が非常に上手でした。そのため、小牧・長久手の戦いの前年に豊臣秀吉を非難し、徳川方に味方するように促す文を多くの武将たちに配布。
やがて、字の上手さと内容を知った秀吉は怒りを露わにし、康政に10万石の懸賞金がかけられるほどでした。
そんな康政ですが、言いたいことを言ってしまう性格で、主君である家康にも物申すことがありました。
それは関ヶ原の戦い後のこと。
家康は、秀忠が遅刻したことで関ヶ原の戦い本戦に間に合わなかったことを理由に、秀忠と距離を取っていました。
そのことで康政は家康に、「関ヶ原に向ってくるようにとの命令を受けた使者が、悪天候のために遅れてきました。加えて、命令を受けて関ヶ原に向かったとしても、悪天候が災いし遅刻することは当たり前だったはずです。」と伝えました。
康政の言葉を受け、家康は秀忠に対面を許可。この働きに秀忠は大変感謝したそうです。