手洗いをしっかりしよう!Japaaan

甲斐の虎・武田信玄を6度も退けたもう1人の虎!「上州の黄斑」と呼ばれた武将・長野業正の勇姿を紹介

甲斐の虎・武田信玄を6度も退けたもう1人の虎!「上州の黄斑」と呼ばれた武将・長野業正の勇姿を紹介:2ページ目

/ 人物
@
2024/07/08

信玄の侵攻を6度も退ける

憲政から独立後は、後北条氏に従わずに西上野で独自勢力を築きました

しかしながら、弘治3年(1557)には川中島の戦いに並行して信玄が西上野に侵攻を開始。業正は瓶尻(みかじり)にて箕輪衆を含めた2万の軍勢を率いて迎え撃つも敗れてしまいます。

瓶尻の戦いと呼ばれたこの戦いで、業正は殿として武田軍の追撃を撃退する活躍をし、無事に役目を果たしました。

その後は永禄2年(1559)に起こった若田原の戦いを含め、6度も侵攻を繰り返した武田軍を奇襲戦法で全て撃退した活躍をしました。

業正の勇猛さに信玄は「業正が生きている限り、上州には手が出せない」と嘆いたと言われています。

信玄から上野国を守り抜いた業正ですが、病に勝てず永禄4年(1561)に71歳で病没しました。

業正死後、一気に衰退した長野氏

業正死後は長野業盛が家督を継ぎ、西上野に侵攻を繰り返す信玄に抵抗します。

しかし、業正という求心力を失った箕輪衆は徐々に弱体し、父に劣らぬ武勇を持った業盛でも信玄の侵攻を防ぎきれませんでした

そして、永禄9年(1566)に2万の兵の総攻撃を受けたことで箕輪城は落城。業盛も23歳の若さで一族郎党と共に自刃し、箕輪長野氏は滅亡しました。

こうして西上野は信玄の領地となり、長野氏の旧臣たちは信玄に仕えるも、長野一本槍として長野家に仕えた剣聖・上泉信綱は、新陰流を普及させるための旅に出たと伝わっています。

 

RELATED 関連する記事