なぜそのような暴挙を…幕末、”偽官軍”の汚名で長州藩に滅ぼされた「花山院隊」の非業の末路
時は幕末、欧米列強の侵略から日本を守るため、徳川幕府の打倒を目指して多くの志士たちが決起しました。
九州は豊前国(現:大分県北部)でも倒幕の挙兵が起こったものの、非業の末路をたどることになります。
今回は志半ばに壊滅した「花山院隊(かさのいんたい)」を紹介。その武勇伝をひもといてみましょう。
花山院隊の挙兵前夜
花山院隊の発起人は佐田秀(さだ ひずる)。豊前国宇佐の尊皇志士で、長州支藩・長府藩の報国隊に所属していました。
佐田は同じ報国隊士の木付義路(きつき よしみち)と語らい、京都から公家の花山院家理(かさのいん いえさと)を奉じて倒幕の義兵を挙げる計画を立てます。
木付が家理を迎えるため京都へ向かい、佐田は国許で兵を集めたところ、およそ150の義兵が結集しました。
しかし挙兵の旗印となるべき家理は、長州藩の妨害によって豊前入りが叶いません。
そして慶応4年(1868年)1月、既に京都では薩長土肥の官軍が旧幕府軍を撃破していました(鳥羽・伏見の戦い)。
このまま時を空費しても始まりません。
「どうする?このままでは大義名分が……」
「止むを得まい。まずは我らが兵を挙げ、露払いと参ろうではないか!」
しびれを切らした佐田たちは、家理の到着を待たず花山院隊を自称。そして1月14日、無許可で挙兵したのでした。
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