初期の明治新政府を運営したのは薩長ではなく公家だった!~ 公家による政治運営から内閣制度発足まで【後編】:3ページ目
影響を持ち続けた「公家」の系譜
ここからが、日本の政治の路線が大きく変わっていくポイントとなりました。公家による独裁体制が終わり、薩長閥が政治を運営する内閣制度がスタートしたのです。
下級武士の出身だった伊藤博文が日本の最高権力者になったー。これにより、薩長の下級武士出身の者たちも、天皇のもとで最高権力を行使できるようになったわけです。
これは現代の視点で見れば機会均等の実現であり、日本で初めての、最も民主化された制度でした。
もっともその一方で、薩長の出身者による藩閥政治や権力争いの温床になったともいえます。
とはいえ、公家たちの存在感も失われたわけではありません。
性急な民主主義の採用が国のためによくないということは、当時の閣僚たちもよく分かっていました。そのため、三条実美が在世中は彼の権威に経緯が払われ続けました。
また、考えてみれば明治天皇も旧公家グループの一員であるわけで、この公家グループの系譜はその後も途切れることはありませんでした。西園寺公望、近衛文麿、昭和天皇、そして細川護熙と、この系譜は日本史の節目節目で政治に大きな影響を及ぼしています。
伊藤博文は、後年大磯の自宅の敷地に四賢堂を建てており、四人の先人を祀っています。そのうちの二人が大久保利通と木戸孝允で、さらにそこへ岩倉具視と三条実美が入っていることも、故無き事ではないと言えるでしょう。
参考資料:
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年・PHP新書