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薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす

薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす:3ページ目

余裕の記念撮影

この会議は、完全に慶喜のペースで進められました。四候は、有識者とはいえ非主流派です。彼らは会議のさなかに慶喜の演説に圧倒され、さらに議論を始めてもとても慶喜には敵わず完全に言い負かされてしまいます。

まず兵庫開港問題は、慶喜が粘り強い交渉によって朝廷から勅許を取得します。また、長州藩の処分についても、問題は棚上げ状態になりました。

で、慶喜が余裕の程を見せつけた極めつけは記念撮影です。四候会議の参加者は、上記の議論が全て終わったあと慶喜によって饗応を受け、集合写真まで撮ったのです。

四候会議は、誰にとっても何の成果もなく、ただ慶喜が政治家としての手腕を見せつけるだけで終わったのでした。彼にとっては、この会議を乗り切ることなど余裕だったのです。

薩摩藩の目論見は完全に潰されました。しかも皮肉なことに、この会議によってかえって慶喜の政治家としての有能さが示される結果になったのでした。

もちろん、その後も幕府にとって有利な展開が続いたわけではありません。

そもそも、薩摩藩は最初から討幕方針を掲げていたわけではなく、あくまでも徳川を含めた連合政権樹立を目標としていました。しかし慶喜が有能すぎたため、この目標を放棄せざるを得なくなったのです。

こうして追い詰められてしまった薩摩藩では、反対に「もはや武力討幕しか、薩摩藩の主導権を保持する道はない」という意見が優勢となりました。薩摩はだんだん破れかぶれ、成功を度外視したやり方で工作を進めていくようになったのです。

歴史の流れを言えば、慶喜が有能だったがゆえに薩摩藩はクーデターに及べず、その代わりに討幕に至ったと言えるでしょう。幕府と慶喜にとっては皮肉な結果でした。薩摩藩もまた、それだけ追い詰められていたのです。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

 

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