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薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす

薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす

四候会議と兵庫開港問題

さて、京で四候会議が開かれた時のことです。この会議は、列強から受けていた兵庫開港要求問題長州藩の処分を問うことを目的に開かれました。

兵庫開港要求問題とは、イギリス公使が幕府に対して兵庫の港を開港するよう求めていたもので、条件は①兵庫と大阪の即時開港②条約勅許③輸入関税改訂、の三つでした。

八月に長州藩へ報復攻撃していた四国連合艦隊は、報復のための遠征費などをあわせて巨額の賠償も要求していました。しかし兵庫開港の条件を呑めば、未払いの賠償金は放棄するとしていたのです。

イギリスとしては、幕府がこの問題を先延ばしにするなら朝廷と直談判するつもりでした。

この問題は、一度は慶喜が上手にあしらっています。彼は新将軍就任後、イギリスとフランスそれぞれの公使に、慶喜が全権掌握していることを告げました。一方で朝廷には、許しがなければ開国の布告はしない、と宣言します。見事な二枚舌でした。

結局、慶喜はフランスを味方につけてイギリスを一蹴。そこでイギリスは薩摩に接近し、兵庫開港問題を使って雄藩を焚き付け、幕府を追い詰めようと入れ知恵していました。

実際、薩摩はこの問題を利用して幕府に迫っているのですが、慶喜は「江戸や大坂ではなく、鹿児島と下関を開港すればいいんじゃない?」などと、完全にコケにしています。

さて、四候会議に参加したのは島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城。今風に言えば「有識者会議」です。主催者は西郷隆盛たちで、先述の通り彼らはこの会議をリードすることで、幕府の権威をさらに弱体化させることを目論んでいました。

彼らが企んだのは、幕府ではなく朝廷が直接諸外国と条約を結ぶことでした。そうすれば幕府から外交権を事実上はく奪することができます。また、長州藩に寛大な処分を下すことができれば、雄藩による連合政権樹立にもつなげられるでしょう。

会議が始まる前から、大久保利通は調停工作に奔走していました。また、4月12日に入京した島津久光は、慶喜の将軍職はく奪を朝廷に対して進言しています(大久保の入れ知恵)。しかし相手にされませんでした。

3ページ目 余裕の記念撮影

 

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