薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす
怪物・徳川慶喜
幕末期の歴史を語る上で、徳川慶喜という人物が、一般的なイメージとは異なりどれほど有能な政治家だったかは強調してもし過ぎることはありません。
やはり有能だった将軍・徳川慶喜!第二次長州征伐が失敗しても江戸幕府が権威失墜を免れた理由
第二次長州征伐とは幕末期に行われた第二次長州征伐は、1866年(慶応2年)に江戸幕府と、討幕運動の拠点でもあった長州藩との間で起きた戦いです。第二次なら当然「第一次」もあるだろうと思われる…
彼は朝廷も、反幕勢力も、各地の諸侯も、さらに海外勢力までも翻弄するほどの怪物的な手腕と力量を持っていました。
幕末期は、討幕勢力によってなすすべなく徳川幕府が滅ぼされてしまった印象ですが、それは違います。実は徳川慶喜は何度も薩摩をやり込めており、丹念に史料を読み解いていくと、一体なぜ徳川慶喜という人物が最終的に倒されてしまったのか分からなくなってしまうほどです。
ここでは、1867年5月に開かれたいわゆる四候会議で、慶喜が薩摩に一泡吹かせたエピソードをご紹介しましょう。
第二次長州征伐に失敗した幕府は、いっときその権威が低下しました(その後の改革によって回復していますが)。その隙をついて、さらにこの会議で追い打ちをかけて幕府の力を削ごうと考えたのが薩摩藩だったのです。