手洗いをしっかりしよう!Japaaan

なんとピンチヒッターで将軍の側室に!幸運に恵まれた、徳川家定の母「本寿院」の生涯

なんとピンチヒッターで将軍の側室に!幸運に恵まれた、徳川家定の母「本寿院」の生涯:2ページ目

後の将軍を産む

将軍の側室となったからといって、それで全てが安泰……ということはありません。徳川家慶は父・家斉(いえなり)ほどではないにしろ、周りには女性が多く、正室1名・側室8人いたと言われています。

しかし、ここでも美津は運に恵まれます。

文政7年(1824年)、彼女は政之介を産みます。彼は後の第13代将軍・徳川家定です。将軍の生母としての地位を確立していきます。

篤姫登場

徳川家慶が亡くなると、美津は落飾して本寿院を名乗ります。徳川家定は二人の正室を迎えますが、いずれも亡くなってしまいます。

そこで白羽の矢が立ったのが、「篤姫(あつひめ)」でした。家定はもともと身体が丈夫ではなかったこともあり、子どもはできず。跡継ぎ問題が起こりました。

和宮が江戸城に来て、本寿院は二の丸に移る

安政5年(1858年)に、徳川家定は亡くなります。そして、次の将軍徳川家茂が和宮を江戸城に迎えたタイミングで、本寿院は二の丸に移りました。

そして江戸城無血開城を受け、本寿院は篤姫とともに一橋邸へ写ります。その後、明治18年(1885年)に亡くなりました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

 

RELATED 関連する記事